オバさんだらけのカオス・コスモス。
島田御大の「本格ミステリー宣言」を再讀してから、ミステリにおける「謎」というものについて少しばかり考えてみたいと思いまして、本作を再讀してみた次第です。
戸川センセといえば、キワモノマニア的にはやはり「夢魔」や「透明女」などのキワモノスリラーの長編や、ヘンテコに過ぎる秘宝館テイストがこれまたタマらない短編集の印象が強すぎる譯ですけど、處女作にして乱歩賞受賞作でもある本作や「猟人日記」などは、それらの作品群に比較すると、いかにも頭がグルグルしてしまうキワモノ風味は抑えつつ、後半のどんでん返しで魅せてくれる本格作品に仕上がっています。
とはいいながらやはりそこは戸川センセでありますから、本作も當然奇妙な作品でありまして、そもそもこんな妙チキリン作品が乱歩賞を獲ってしまったこと自体がひとつの奇蹟でありまして、冒頭、オカマが交通事故で御臨終というプロローグから始まり、その事故から三日前のエピソードを提示して讀者にこれから發生する不穩な出來事を暗示してみせる構成がまず見事。
この「三つの暗示」で提示されるメリケン息子の誘拐事件や、鞄に詰められた子供の死体をアパートを地下に隱す怪しい二人の行動など、いかにもな逸話を示すことによって不穩な空氣を盛り上げつつ、いよいよアパートの移動工事という大イベントへと繋げていく譯ですけど、ここから紛失したマスターキーをネタにアパートの住人たちの奇矯な行動が描かれていくことで物語はますます混沌としてきます。
個人的に興味深いのは、冒頭のエピソードで誘拐事件や怪しい二人がアパートの地下室に埋めたブツなど、「事件」の存在を仄めかして「謎」の生起を行いつつも、そこから如何なる謎を讀み取るのかが讀者に委ねられている構成にありまして、これが本格理解「派系」作家の手になる作品であれば、ド派手な不可能犯罪が発生するや、このコロシのキモは密室ですよ、とか、雪ン中に死体が轉がっているのに足跡がないことに注目の要アリ、なんて具合に、ボンクラワトソンや傲慢短氣な警察関係者への説明という體裁をとりつつ、「事件」の中では何が「謎なのか」、その問題内容を詳細、丁寧に語ってくれる譯ですけども、本作はそのあたりが大きく異なります。
誘拐事件の逸話と、アパートの地下に死体を埋めるエピソードはそれぞれ併置されつつも、この二つの出來事の連關があからさまに語られることはなく、本章ともいえる「マスター・キー」で語られる、アパートの怪しい住人たちの奇矯な行動を通して、その連關が次第に、そして濃厚に示唆されていくという展開は秀逸です。
いうなれば、謎の提示そのものがミスディレクションへと繋がる構成は、今讀んでも非常にモダンに感じられ、戰後の風俗も交えた物語の描寫こそ昔フウの風格を持たせているとはいえ、ミステリの技巧に目を向けた場合、その構成の巧みさに自分などはまず魅せられてしまいます。
冒頭に謎が明確な形を伴って示されることのない本作の構成は、アパートの住人である奇矯なオバさんたちとの異樣な行動とも相俟って、物語の雰圍氣に何処か落ち着かない不安を添えていることにも成功している一方、まず冒頭にド派手な謎を開陳することでツカミを得る、という定番の構成から大きく乖離した風格は讀者を相當に戸惑わせることにもなるやもしれず、このあたりで本作の評價が大きく分かれてしまうのではないかなア、という氣もします。
マスター・キーをゲットした奇天烈婆さんたちが引き起こす異樣な事件は倒叙的な展開で語られていくのですけど、盜難ヴァイオリンや、教え子に書いた手紙などによって徐々に、冒頭に提示された逸話を一本の線へと繋げていく騙りの技法はやはり見事で、物語の枠には大技のミスディレクションを配する一方、個々の事件には現代ミステリの定番であるアレを驅使して、登場人物たちの奇矯な行動の眞相が明らかにされる後半も相當に讀ませます。
探偵がド派手な推理を後半にブチかますような定番の展開を退けているところも個人的には好印象で、エピローグによって犯人の犯行が無化されてしまう眞相も素晴らしい。乱歩賞でありながら乱歩賞らしくない、またキワモノスリラーの女王、戸川センセの作品でありながら、戸川スリラーらしくない風格も含めて、當に異色作と呼ぶに相應しい作品といえるでしょう。
で、話を島田御大の「本格ミステリー宣言」に戻すと、この御大の期待する本格ミステリーも、謎の提示と論理による解決という骨格に目をやれば、「美しい」とか「幻想味ある」とか「強烈な魅力」とか、限りなく主觀的で個々人によってはいくらでも解釈が可能な形容詞がガッツリと添えられてはいるものの、いずれにしろ冒頭にシッカリと、分かりやすく、讀者の前に謎が提示されるのが好ましいとされている譯で、この點では本格理解「派系」作家の作品とそう大きな違いがないようにも思えます。
しかし日本の現代ミステリに少しばかり目を向けると、例えば「Jの神話」で、キワモノミステリマニアを大滿足させてくれた乾氏の問題作「イニシエーション・ラブ」では、謎そのものが讀者の前から隱されている。
さらにいえば、この作品の場合、謎解きのロジックも存在しない、まさに「仕掛け」だけが存在するという異樣な構成をとっている譯ですけども、とりあえず「推理」の部分についてはまたいつか機會があったら語るとして(爆)、その他にも道尾秀介氏の「向日葵の咲かない夏」では、笠井氏が「世界の謎と事件の謎の二重性」という言葉で説明しているように、「事件の謎」を提示することによって「世界の謎」が讀者の目から隱蔽されているように感じられます。
つまり「謎の提示」そのものをミスディレクションに昇華させてしまうのもまた現代ミステリの一つの技巧なのではないかなア、というのが最近の自分が感じているところでありまして、「謎の提示」の方法に自覺的な本作の構成もまた、現代ミステリ的な視點で讀み返すこともまた愉しい、と思うのですが如何でしょう。
戸川センセの作品といえば、エロとトンデモとキ印のカオスが麻薬的な恍惚を産むキワモノスリラー、という印象を持っている自分のようなマニアにしてみれば、本作はまさに異色作ともいえる譯ですけれども、キ印めいたオバさんたちが怪しい言動と行動で讀者を翻弄しまくる風格は、意外と山田正紀氏のミステリなどにも通じるものがあるかもしれません。オススメ、でしょう。