キ印先生癇癪日記。
タイトルからして明らかな通り、漱石の「吾輩は猫である」をネタに日常の謎ミステリを展開した本作、歴史上の人物に絡めて重厚な物語が綴られた他作品に比較するとその輕さが愉しい佳作ということになりますか。
しかし輕いとはいえ、キ印スレスレ、というか癇癪持ちでマンマキ印の先生のアレっぷりや猫絡みの謎を描きつつ、それぞれのエピソードの背景にはさりげなく日露戦争の影を添えてみせたりと、「トーキョー・プリズン」や「新世界」でも感じられた柳氏の社會派としての風格は健在です。もっともそれをいたずらに表に押し出したところがないぶん、YA世代も安心して讀めるつくりになっているところがまず秀逸。
構成はというと「吾輩は猫である」に出てくるエピソードにミステリ的な趣向を凝らした連作短編を揃え、語り手は先生の書生君。収録作は、名前はまだない居候猫が鼠泥棒の嫌疑をかけられる「我が輩は猫でない?」、殺猫事件の裏にある眞相を推理する「猫は踊る」、先生宅の山芋盗難事件「泥棒と鼻恋」、奇妙な演芸会の語りに極上の騙りを凝らした「矯風演芸会」、ガキどもの野球三昧に漱石先生がブチ切れる「落雲館大戦争」、くだんの猫の失踪事件に本作ならでは語りが心地よい幕引きをもたらす「春風影裏に猫が家出する」の全六編。
ド派手なコロシが發生する柳ミステリの定番とは異なり、いずれも猫の失踪だの山芋の盗難だのといった軽めの謎を扱った短編ばかりという趣向から、まずこのあたりで作者のミステリを讀み慣れていたマニアは戸惑ってしまいます。
このあたりはミステリーYA!というレーベルを意識してのものかと推察されるものの、謎としてのツカミはやや弱く、マニアがいつもの柳ミステリを期待していると些か肩すかしを食らってしまうかもしれません。ただ連作短編という構成から一冊の本として見るとその素晴らしさが際だってくる譯で、このあたりは作者の手になるあとがきを讀むとよりいっそうその企みを深く理解出來るかと思います。
「吾輩は猫である」に隱されている裏の物語をミステリとして再構成するという本作の試みは、「矯風演芸会」の後半で明らかにされる物語の表と裏を反轉させる結構に明らかで、大きな謎らしい謎もなくただダラダラと演芸会の様子が變人たちによって語られるという趣向が後半、社會派らしい色も添えてそこからマッタク別の意味を浮かび上がらせるという構成が素晴らしい。
謎の提示も含めてよりハッキリとした物語を御所望であれば、「猫は踊る」あたりが愉しめるかもしれません。冒頭、くだんの猫が餅を食らって猫踊りをする場面にさりげなく仕掛けを凝らしつつ、殺猫事件の真相が書生君によって推理される後半の展開が秀逸です。いずれも登場人物たちの些細な行動に眞相へと辿り着くヒントが隱されているという趣向ゆえ、漱石先生のアレっぷりを惚けた文体で描いてみせる冒頭部がそれらのヒントを讀者の目から遠ざけているところも巧みです。
ベタな文体ゆえ時に深みがないと思われた柳氏の文章が、「吾輩は猫である」の物語には見事に馴染んでいるところにも注目で、これが日本人を語り手に据えた構成のゆえなのか、それとも日本語で書かれた原典がある為なのか興味のあるところです。
ただ、ミステリとして見た場合、「矯風演芸会」をピークとして後半へと流れるにつれて、謎の勢いが減じて小粒になってしまうところが残念といえば残念、といったかんじなのですけど、最後の「春風影裏に猫が家出する」では、本作の語り手を猫ではなく書生君に据えていたからこその素敵な幕引きに、原典の「吾輩は猫である」の物語を知っている人は嬉しくなってしまうのではないでしょうか。個人的には短編の中で展開されるどの趣向よりも、實はこの素敵な幕引きが一番のツボでした。
またこの先生のキ印ぶりからして、本作は先生をホームズに、そして冴えない書生君がワトソン役かなア、という予想を裏切って、先生はただのキ印、そして書生君が素晴らしい観察眼で事件を推理、という結構も洒落ています。
先生宅を訪れる變人たちも個性的で、特に迷亭のアレっぷりは相當のもの、という譯で原典を知らずともその破天荒なキャラの織りなすエピソードは大いに愉しめるものの、やはり個人的には「我が輩は猫である」のラストシーンを知っていた方が絶對に満足出來ると思います。
軽めの風格から「饗宴」や「新世界」のような重厚さは希薄ながら、それでも物語の背景に戦争の影を通奏低音のごとく響かせ、また原典とは異なる洒落た幕引きを用意していたりと、柳氏のうまさが光る佳作でしょう。