二十一世紀本格の手法、原書房商法。
「 帝都衛星軌道 」に續く島田御大の新作は、「名車交遊録」に収録されていた「人魚兵器」と「耳の光る児」、さらに「島田荘司「異邦の扉」に還る時」から「海と毒薬」、それに書き下ろしの中編としての表題作、「溺れる人魚」を合わせた作品集。
自分としては、「名車交遊録」の二作は既に讀了濟、書き下ろしである「溺れる人魚」が目当てで購入したクチなんですけど、既に單行本「名車」に入っている二短篇を更にまた別の單行本へ収録し、そこに書き下ろしを加えることで一册を仕上げてしまう、というのは如何なものか、なんて考えてしまうんですけど、まあそこはそれ。
いずれも物語の中にポルシェが登場する「人魚兵器」と「耳の光る児」は「名車交遊録」の中でこそ光る短篇ではないかなア、なんて思っていたんですけど、こうして書き下ろしの「溺れる人魚」と一緒にあらためてイッキ讀みをしてみると、「耳」を除いては全編に人魚が重要なモチーフとして描かれていることに氣がつきまして、また違った雰圍氣を堪能出來た次第です。
表題作である「溺れる人魚」は、花形人生から病によって人生を転落していく悲劇のヒロインを描き切ったという點で、何処となく「ロシア幽霊軍艦事件」を思い起こさせる作品。
ミタライの名前は最初の方にチョロッと登場するものの、謎解きは行いません。物語は天才的な水泳選手であった、とある女性の過去を探る為、語り手が彼女の旦那を訪ねていくというもので、この女性の劇的な転落人生にロボトミー手術を絡めて物語は展開されます。
この天才水泳選手である女性は、「急に頭がおかしくなって」、晩年はとあるボロアパートに幽閉されるようなかたちで生活をし、最後にはピストル自殺を遂げたというのだけども、このビストル自殺とほぼ同じ時刻に、同じ拳銃を使ってこの現場から離れたところで醫者が殺されている。今は瀕死の状態にある旦那はこの事件を聖アントニオの奇蹟だというのだが、……という話。
この殺された醫者というのが敬虔な、というか狂氣に近い基督教の信者でありまして、彼女のとある発作を淫亂症と即認定、更にロボトミー手術華やかりし頃ゆえに、彼女はこの醫者野郎に手によって、悪魔の手術の犧牲者となってしまう。
退院した彼女は廢人同然となり果てて一生を終えるのですが、前夜祭の夜に、このロボトミー醫師はテレビでロボトミーのスバラシさを演説、この録画番組を見てそれに衝撃を受けた故か彼女はその夜にピストルで自殺を遂げるのだが、そこから離れたところで、このロボトミー醫師も彼女が自殺に使った拳銃で殺されていたという。果たしてその方法と犯人は……。
とにかく前半に描かれる彼女の転落人生に絡めて、この病状のエロっぽいところを事細かに描寫する御大の筆捌きが拔群で、ヒロインがもの凄く悲慘な状況にあることは十分に過ぎるほど理解できるものの、御大の描寫がどうにも「涙流れるままに」っぽくなってしまうのはどうしたものか、というか、これ讀んで「涙流れるままに」の通子のエロっぽいところを思い出してしまうのは自分だけでしょうか、スミマセン。
悲劇のヒロインの半生を逸話風に纏めた前半はやや説明口調に転ぶものの、それを旦那の視點から淡々と描いてある為に決して飽きさせないところは流石です。語り手がこの旦那と邂逅することによって、ヒロインの自殺の過去とロボトミー醫師の銃殺事件の状況が現れる後半からは當に御大の本格ミステリへと轉じます。それが語り手の天啓によって明らかとなるラストまで一氣に讀ませるところも素晴らしい。
御大らしい、この前夜祭の夜だからこそ可能であった仕掛けは勿論なんですけど、この犯行の動機と、犯人が思い描いていた犯行計画の実相から浮かび上がる悲哀が胸を撃つところも最高で、最後に語り手がとあるところからこの事件の啓示を受ける場面から、餘韻を持たせた幕引きに到るまで、完璧な構成で組み上げられた作品といえるのではないでしょうか。自分としては偏愛したくなる作品ですねえこれは。
「人魚兵器」は以前、「名車交遊録」を取り上げた時に感想を書いたのでここでは割愛して、續く「耳の光る児」はまったく出自の異なる場所で耳が光る子供が生まれたのだが、それは何故なのか、というところをミタライが推理していくというもので、ミステリでいえばミッシングリンクものでしょうか。
前半にやや長めの世界史の講義があるものの、ミタライがロシアの諜報員めいた連中の尾行を逃れて、耳の光る子供を持つ親のひとりに會いにオートバイで高原を駆け拔けるシーンなど、これが長編であれば結構魅せる場面もありそうなんですけど、このあたりをハインリッヒのあっさりした記述で流してしまうところが勿体ないといえば勿体ない。
ここで使われているネタは奇想というよりは、御大の社会派的側面が強く押し出されたものでありますから、ミッシングリンクの謎解きの妙味はあるものの、やや専門知識も必要とする故に、真相が明らかにされたときのカタルシスはやや薄味。
ミタライがポルシェのカイエンに乘っているというのが、何ともらしくないんですけど、まあこれにはチャンとオチが用意されてありまして、この謎にカイエンという車名を絡めたあることが明かされる結末も心地よい。ただ車の風格を押し出した作品としては、ハインリッヒが黒いベレー帽を被ってシルバーの356を驅るシーンが美しい「人魚兵器」の方が好みですかねえ。
最後の「海ど毒薬」は、石岡君がミタライにあてた手紙の中で、最近の横浜の變容を語りつつ、彼の大ファンだという一女性からの手紙を繙くというお話。
いかにも熱心なファンを裝っていた女の文体がとある事件の告白から一氣に怪しい雰圍氣を釀し出すのですけどこの転調が見事。ミステリらしい事件は起こらないものの、「異邦の騎士」で登場したいくつもの風景に、自身の心象風景を託して語られる女の悲劇的な過去が最後には美しい癒やしに包まれるシーンがこれまた素晴らしい一編です。
熱烈なファンというか、一歩間違えば電波女へと転んでしまうギリギリのところで、女の悲劇を語るというこの技はもう御大でしかなしえない超絶技巧といえるのではないでしょうか。
この作品に人魚はあからさまに登場しないものの、たびたび女がこれにふれる場面がありまして、ここに至って本作に収録された作品のほとんどに、人魚の悲劇的な物語が通奏されていることに氣がつくという趣向も洒落ています。
派手派手しさはないものの、女の悲哀がさまざまにかたちに変奏されて語られる物語は全編を讀みとおすことで何ともいえない餘韻を殘します。御大の代表作ではないかもしれませんが、自分的には「網走発遙かなり」と同樣、偏愛したくなる一册になりそうですよ。「名車交遊録」を既に手にされている方も、この構成で書き下ろしの「溺れる人魚」から「海と毒薬」までを一氣に讀みとおすことで、また違った感想を持たれるのではないでしょうか。
ミステリとしての出来榮えは「帝都衛星軌道 」の方が上でしょうけど、「ロシア幽霊軍艦事件」から「涙流れるままに」に到る、御大の描き出す女の悲哀系(+エロ)が好きな方にはこちらをおすすめしたいと思いますよ。