「作法の次は入門を読もう!」っていうジャケ帶に惹かれて購入したんですけど、うーん、ミステリ書きたい人がこれ讀んで何か得るものがあるのかどうか。寧ろ自分などは木々高太郎のあまりに古くさいミステリ観を嘲笑しながら讀んでしまいましたよ。
木々高太郎と有馬頼義という、何というかまったく相容れなさそうな二人の共編というのが興味深い。もっとも「編」とある通り、テーマの方はこれから推理小説を書こうという人にまずはその心構えと予備知識を伝受いたしましょう、というスタンスで各人の文章を纏めてあるだけですから、一册の本全体としてみれば散漫な印象を受けてしまうのも仕方がないですかねえ。
有馬頼義の「私の推理小説論」では彼が推理小説を書くに至ったいきさつが述べられているのですが、これなど讀むと當事は「探偵小説」なのか「推理小説」なのか、なんてこんなツマラないことでみんな悩んでいたんだなあ、と。今でしたら、ミステリの一言で全部片づいてしまうことなんですけど、當事は結構大きなテーマだったんですねえ。
「推理小説の文章」では、松本清張がポーや森鴎外などを取り上げて文章の何たるかを得々と説いてくれるのですが、何というか、探偵小説に對する冷たい敵意のようなものが文章の隨所隨所に感じられてちょっとイヤーなかんじです。ポーの「黒猫」の大時代的なプロローグの文章を取り上げて曰わく、
しかし、従来、日本の探偵小説の多くが、この文章をよしとするあまり、勝手に内容の空疎な、過大な形容詞を羅列したために、ついに堕落してしまったのである。まことに文章とは危険きわまりないものである。
更には乱歩の文体の模倣が探偵小説の堕落を導いたとかいうご高説を垂れてくれるのが以下の文章。
ところが、後の日本推理小説は、乱歩をピークとしているので、自然にその模倣舍となったのはやむを得ないが、この文体のもっとも欠点とするところを彼らが汲み、のちに、日本の探偵小説の堕落の因となったことは遺憾である。
何というか餘計な御世話ですよ。二階堂黎人氏が讀んだら怒り出しそうな文章ですねえ、っていうか、氏の場合、確信犯でやっていて、讀者の自分としてもそれが愉しくて彼の蘭子シリーズを追いかけている譯で。
このほか収録されているもののなかでいいのは「監察医の話」ですね。第一話、第二話、というかんじで、筆者が体驗した事件の概要と謎解きを見せてくれるのですが、上野正彦の諸作のようで、短い乍らも讀み應えがあります。特にいいのは第六話の、厠で発見された老婆の死体で、
体格は中くらいであるが、腐敗のため巨人のようにふくれあがり、全身の表皮はほとんど一皮むけて淡赤褐色なしい淡青藍色の真皮がむき出しとなっている。……そして顏面、頭部、胸背部には一センチくらいの蛆が多數うごめいている。鼻翼はほとんど原型をとどめない程度に腐っていて、耳からも、また、蛆が出たりはいったりしている。
まあ、全編こんなグログロの死体描写で押し切っている譯ではないので、ご安心を。大石圭氏の最新作「死人を恋う」の主人公も、この掌編を讀んでいれば、最初に死体を見つけた時に躊躇ったんじゃないかなあ、と考えたりしましたよ。
さて、本作の一番の讀みどころというかツッコミどころは、最後を飾る木々高太郎の「探偵小説の諸問題」です。「1 探偵小説の読者」「2 探偵小説の翻訳」という具合に小さな節をもうけて色々と解説をしてみせてくれるのですが、「12 エロと探偵小説」っていうタイトルは如何なものか。せめて、エロスとかにすることは出來なかったのでしょうかねえ。
まあ、色々とツッコミを入れたいところは多々あるのですが、例えば「捕物帳と称する非論理の小説」などとくさして捕物帖を批判しているのですけど、これが書かれた當事って、安吾の「安吾捕物帖」も、都筑道夫の「なめくじ長屋捕物さわぎ」もなかったんでしょうか。この二作を見ても、木々の意見がどうにもハズれていることは明らかですし、ウェスタンと捕物帖を同列に論じてしまうのは些か暴論に過ぎるのでは。
また「エロと探偵小説」のところで論じられているエロスに關しても、自分たちは既に泡坂妻夫の「湖底のまつり」や乾くるみの「イニシエーション・ラブ」、さらには歌野晶午の「葉桜の季節に君を想うということ」などを知っている譯で、エロスはミステリと思いのほか親和性があることは実作をもって証明濟みです。
このミステリ觀(推理小説觀というべきか)だと、木々高太郎がアレ系やメタミステリなどを讀んだ日には卒倒してしまうのではないでしょうかねえ。
まあ、そんな譯で、今のミステリ讀みからすると、どうにも舊態依然とした内容に苦笑するしかないんですけど、昔はこういう人もいたんだねえとクスクス笑いながら讀むのが吉でしょうかね。積極的におすすめはしないですけど、興味のある方はどうぞ。