初期の作品ほどの衝撃度はありませんが、それでも夢の世界の莫迦莫迦しさと、現実の世界との落差は當に作者の眞骨頂といえるでしょう。
以前紹介した「仮題・中学殺人事件」や「盗作・高校殺人事件」などは最後にメタな仕掛けが現れて讀者を驚かせるという手法が際だっていた譯ですが、本作の場合、最初から現実と虚構の二つの世界は畫然と分かれていて最後まで交わることはありません。
メタミステリが好きな自分としてはそこのところが少しばかり不滿といえば不滿なんですけど、それでもこの夢の世界で展開される密室殺人のクダラなさには一讀の價値ありでしょう。
解説を讀んで知ったのですが、作者の辻真先は児童向けに「不思議の国のアリス」を翻譯するほどのアリスマニアだそうで、本作にもアリスの世界ではお馴染みのキャラが登場するものの、寧ろ目立った活躍を見せるのはその昔の漫畫ではお馴染みのニャロメやヒゲオヤジといったおふざけぶりです。
主人公は「アリス」が好きで好きでタマらない綿畑克二という編集者で、彼は児童文学の編集を志してはいたものの、会社の方針によって漫畫雜誌の編集に回されることになります。彼の上司は漫畫に命を賭けているような鬼編集長ですから、そんな克二を氣に入る筈がありません。漫畫の創刊が近づくにつれ、克二は多大なストレスに苛まれることになり、その現実逃避の場がアリスいる夢の世界で、……という舞台装置がまずあって、物語はこの鬼編集長のいる現実世界と、克二の見ている夢の世界が交互に語られながら進みます。
夢の世界ではチェシャ猫が密室で殺害され、目を覚ました現実世界ではその鬼編集長がこれまた殺されてしまう。夢の世界で克二はアリスと結婚式を挙げる筈だったのですが、チェシャ猫の親友だったというニャロメに告発され、彼は裁判にかけられる羽目に陥ります。
この裁判で展開される謎解きが莫迦莫迦しくて妙に笑える。ニャロメが克二を犯人とする根據が示されるのですが、このトリックって、……小森健太朗があの作品で示したアレですよねえ。勿論この推理はあっさり否定されてしまうのですが、この後に明らかにされる密室トリックもまたアリスと漫畫の世界が混沌とした夢の中だからこそ可能なもので、ここだけが妙に理屈っぽいところがいい。
一方の現実世界における編集長殺人事件の方は眞面目一邊倒で、克二の獨りよがりな妄想との對比が妙に哀しい。結局彼は眞相が明らかにされた後、精神を異常を來たして最後にはアリスの世界に逃げ込んで幕引きとなるのですが、克二のひとことで現実と夢の世界が反転するという趣向はあるものの、ここで最後にもう一捻り、メタな仕掛けがあると良かったんですけどねえ。
物語とは全然關係ないんですけど、この作品のなかでは吾妻ひでおがキチンと漫畫を書いていたりして時代を感じさせます。それとニャロメとヒゲオヤジとか、今の若者が知っているのか甚だ疑問でして、新本格のファンがこれを讀んで夢の世界の莫迦莫迦しさを分かってもらえるのか今ひとつ確信が持てないところが少しばかりアレなんですけど、本作は日本推理作家協會賞を受賞したということで、作者の代表作にもなっているし、讀んでも損はないでしょう。