「新装改訂版」ということで「全編にわたって手を入れ」たと「あとがき」に書かれてあったのでとりあえず購入、もう下手をすると十ナン年ぶりくらいに再讀したゆえか、ジャケ帯にもある「たった一行が世界を変える」という仕掛けも存分に愉しむことが出來ました。
というのもこの「新装改訂版」、従来の文庫版に比較して、例の仕掛けが最大効力を発揮出來るように組版がなされており、もうこれだけでも本作は買い、ではないでしょうか(分からない人にはマッタク分からないかと思いますが、再讀される方には一目瞭然です)。まさに頁をめくったその瞬間に世界がガラリと姿を變えるというこの恍惚を体験するためにも、まだ本作を讀まれていない方は勿論のこと、自分のようにこれから再讀される方も含めて、これからはこの「新装改訂版」を手に取られることを強力にオススメしたいと思います。
で、その内容なのですが、新本格の幕開けを飾る歴史的傑作であり、また例のアレも含めた仕掛けなど、とにかくあらゆる點で語り尽くされている感もある作品ゆえ、とりたててここで自分のようなボンクラが敢えて何かを付け加えるというのもアレながら、つい最近「インシテミル」と「女王国の城」という傑作を讀んだ後ということもあって、新本格の作品としてではなく、敢えて現代本格の作品と比較するような気持ちで讀み進めていきました。
孤島ものということでクリスティのアレをリスペクトした事件の結構も、今讀んでみると他の現代本格の作品に比較すると妙にアッサリと感じられ、また嵐が起きても密室を大胆にフィーチャーするのではなく、敢えて毒殺を推理のキモに据えて中盤の展開を引っ張っていくところなど、一つ一つのコロシの扱いに大仰さは感じられません。
事件の一つ一つに凝らされた装飾はアッサリながら、しかし本作最大のキモは、島で発生している事件のパートと本土の場面を平行して描きつつ、過去の事件と現在の事件が照応を見せていく結構にあると思うのですが如何でしょう。本土のパートで探偵が新本格以前の社会派や風俗派の余韻を引きずりながらも足を使って、過去の事件を洗い出しを行っていくという流れそのものに仕掛けが凝らされているところなど、とにかく事件の細部に至れば至るほど事件全体の構図が見えなくなるというあたりは、古典とは一線を画する、本作ならでは風格でしょう。
また現代本格では欠かせない「操り」も大胆に導入して、それを物語の結構と連關させることによって、登場人物たちのみならず、読者をも誤導させるという技巧は今讀んでも新鮮です。
しかし今回讀んでみて一番強烈に印象に残ったのは、犯人とおぼしき人物が犯行の決行前に呟くシーンと照応させるかたちで、怪異と言ってもいいような様々な偶然が事件の構図を形成しているところでありまして、プロローグにある、
どうあがいてみたところで、しょせん人は人、神にはなれない。
神たらんと欲するのはたやすいが、実際にそうあることは、人が人である限り、いかなる天才にも不可能だと分っている。
神ならぬ者に、ではいったい未来の現実を――それを構成する人間の心理を、行動を、あるいは偶然を――完全に計算し、予想し尽くすことができようか。
この呟きを交えた思考はこの後、犯行を行う上での望ましい計画とは「柔軟性に富んだもの」でなければならない、というふうに、完全犯罪を完遂させるための事件の計画のありかたへと向かっていくのですけど、犯人の独白によって犯行が明かされる後半になって、犯人自身が構想した「臨機応変な、なるべく柔軟性に富んだ」計画の「枠組」の外には人智を超えたものの意志が存在し、事件の細部においてこれが様々な作用を働かせていたことが判明するところが素晴らしい。さらにはこれが計画の枠組の外部において総てをなしていた犯人もまた、さらに大きな枠組の中にいる卑小な存在に過ぎなかったという風に物語の結構そのものに怪異のごとき大胆な操りを添えているあたりも見逃せません。
そして恐ろしいのは、コロシを重ねていく課程において、様々なかたちで姿を見せている偶然という怪異に事件の構図の中心にいる犯人がマッタク気がついていないという現実でありまして、例えば、「オルツィが指輪など嵌めている姿など一度も見たこともなかった」というのに、何故この時に限って指輪をしていたのかという「偶然」や、「あの奇妙なカップ」にしても、「自分にまわってきたカップがたまたまそれだった」という「偶然」と、これだけの怪異のごとき「偶然」が重なれば、あの足跡にしても「エラリィは結論をおよそ見当外れな方向へと短絡させてしま」ったのも、単なるラッキーとは思えません。またこのあたりの趣向に、綾辻氏のホラー嗜好を垣間見るとともに、「離れた家―山沢晴雄傑作集 日下三蔵セレクション」の解説で巽氏が詳細な分析で明らかにしていた山沢ミステリの風格を感じてしまったのは自分だけでしょうか。
また「偶然」を装った怪異の添え方に、「水車館」の終盤で明らかにされるアレや、「霧越邸」の全体構図を思いうかべながら、綾辻氏の軌跡をあれこれと思い浮かべてみるのもアリ、でしょう。さらに細かいディテールに目をやると、登場人物の一人の母親がアレだったりするところは、「びっくり」館へと継承された楳図センセへのリスペクトと見ることも可能だし、また島の管理人の名前が實はアノ人だったり……と、今、再讀するからこそ様々な側面から愉しめるのではないでしょうか。
で、本編のほかに興味深く讀んだのが、「新装改訂版あとがき」と鮎川御大による「旧版解説」、戸川氏の解説で言及されている例の「新本格バッシング」でありまして、綾辻氏のあとがきに曰く、その批判の急先鋒は「すでに活動を休止した某探偵小説愛好会の一部メンバー」であったとのこと。
さらに戸川氏の解説に曰く、
そこでふと思いついたのが、このバッシングの正体である。それは作品が現実離れしている、とか古い、とか、素人臭い、とか言うよりも、そのあまりにマニアックな雰囲気に対する反感、といったものではなかったか。
マニアというのは、嗜好の程度が強ければ強いほど、そのマニア度は先鋭化し、一般の目から見ると同類と思える者に対し、かえって強烈な拒絶反応を見せる傾向がある。
新本格バッシングは、実はミステリファンの中から起こったものではないか。その稚気を受け入れるか、拒絶するかは、それこそ個人の嗜好の問題なのだ。
確かに件の「容疑者X騒動」を思い返してみたりすると、戸川氏が指摘されているマニア特有の「拒絶反応」というのもボンヤリとながら見えてくるような氣もします。自分の中では、この新本格バッシングをしていた本格マニアの方々と、「恋文」以降の連城氏の作品をケナしていた方々の姿がどうにも重なってしまうのですけど、実際はどうだったんでしょう。
新本格のはじまりを告げる歴史的作品という重い位置づけからは敢えて切り離して、現代本格の一冊として今、改めて本作を讀んでみても、やはりバッシングを受けてしまった理由というのがボンクラの自分には見えてきません。恐らくこのあたり、本格マニアにしか分からない拒絶反応を引き起こすような「何か」があるのだとは思われるものの、これから本作を手に取られる方はそういった歴史的経緯は気に留めず、本作の大胆な仕掛けを堪能するのが吉、でしょう。