ジャケ帶に曰く、「ミステリーを書く人、読む人のための道標!!」とあるんですけど、前半の「創作質問会」が半分以上を占める構成からしても、どちらかというと「書く人」に比重をおいた一册ながら、御大のファンであれば沒問題。創作に興味はない自分でも色々な意味で愉しむことが出来ましたよ。
第一章の「執筆の準備」の最初の質問からして、「字下げ」とか「地の文」の意味とは何ですかみたいなものだったから、この先ずっとこんな内容だったら困ったなア、なんて思ったんですけど、そのあとは御大の創作テクニックなどがさりげなく開陳される中、社會派作家としての視點なども交えて御大の考える本格ミステリー観が明かされていく構成は素晴らしい。
色々な意味で愉しめた、と上に書いたのは樣々なディテールの中に島田節が感じられるところでありまして、小説を書くのに実際の固有名詞、例えばトヨタ車ならトヨタ車と書いていいのか、みたいな質問の回答の中で、大久保清がマツダのロータリーエンジンのスポーツーカーに乘っていたことが一例として語られているんですけど、まあこのあたりで、そういえば宮崎勤は日産のラングレーだったな、なんてことを思い出してみるのも、ミステリ好きなくるまにあならではの愉しみ方でありましょう。
また黄金期の作家の評價について述べたくだりで、イギリスとアメリカとを對比して、「ポーやドイルが体質として持ち、また常に求める姿勢でもいた最新科学への畏敬の念を失って」いったと指摘しているところなど、最近の御大の發言に繋がっていくところも多く、現在進行形の島田荘司を知る上でも恰好のテキストになりえるかと思います。
自身の作品について言及しているところでは、「魔神の遊戯」と「龍臥亭幻想」における創作過程の違いについて述べているところが個人的にはちょっと意外。これによると、「魔神」は結構細部まで煮詰めてから書き始めたのに對して、「幻想」に關してはその逆であったということです。個人的には逆のような氣がしたので、これはちょっとした發見でありました。
あと、第二章で御大の都市論が展開されるところも見所のひとつで、藤原京を「まさに詩を詠むために造った集落装置」だったと喝破したり、その對比でブラジリアの失敗を挙げたりと、一見すると普通の創作講座でありながらその實、作家島田荘司のエッセンスがイッパイに詰まっているところもファン必讀。
あと笑えたのは、これまた同じく第二章で吉敷シリーズが生まれたいきさつが語られているのですけど、カッパノベルズの女性編集者が作中で吉敷にラーメンを食わせることに反對したり、離婚した元妻がいることを快く思っていなかったという話には笑ってしまいました。さすれば、「夕鶴」や「涙流れるままに」で通子がトンデモない女に描かれているのは、ひょっとしてこの女性編集者の復讐だったのでは、なんて考えてしまいましたよ。
それと「トリックの発想」や最後に収録されている公演「日本のミステリー史と、「本格」発想の意義」の中で、「本格ミステリー」を「本格」と「ミステリー」という二つの言葉に分けてその意味を説明しているところにも御大の思想が詳細に語られているところも興味深く讀みました。
ただここで御大が述べられている日本のミステリー史を自分の頭の中で全面的に受け容れるかどうかはまた各人の自由だと思います。乱歩、清張という大巨人を据えて、本格、変格、社會派といった流れをとらえていくのも一つの方法だとは思うんですけど、土屋隆夫のファンとしては、どうにもその流れでいくと土屋ミステリの重要性というものが薄らいでしまうような氣がするし、……みたいなかんじで個人的には色々と思うところがあったりするものの、まあ、そこはそれ、ということで。
この最後の講演會の内容も含めて、御大が何故本格ミステリを書くのか、という理由が、本格ミステリ作家にして社會派でもある御大の創作姿勢をシッカリと現しているところが素晴らしい。この男氣あふれる御大の姿に自分のようなボンクラは惚れ込んでしまうのでありました。
で、内容とはマッタク關係はないんですけど、氣になってしまうのは、本格理解「派系」作家の首領が本作を「超絶的にお勧め」していることでありまして。
まあ、上に述べた通り、御大のファンであればやはり本作も「買い」でしょう。ジャケ帶にもある通り、ミステリを書く人にとっては恰好の指南書となりえるものであろうことはいうまでもないんですけど、容疑者X騒動の顛末を見ているミステリファンからすれば、やはり首領が「超絶的にお勧め」することには何か裏があるんじゃないかなア、なんてゲスな勘ぐりをしてしまう譯ですよ。
本格理解「派系」作家の首領やそのシンパにしてみれば、御大も最近では「古典への回帰」をいわれているわけだし二人は同じ、なんて主張をされたいのでしょうけど、同じ「古典」といっても御大はポーとドイルに立ち歸れ、といい、本作を讀めば明らかな通りヴァン・ダインの呪縛から解放されることが今の本格ミステリには必要、みたいなことをいっている譯ですよ。やはり、御大と首領はこの點でも違うのでは。
またもうひとつ、行儀論ということに關していえば、第一章の「執筆の準備」で、
素人の癖に生意気だ、といった日本流の行儀糾弾自体が、歴史的、構造的に見れば誤りなんです。
と述べている御大のスタンスは、「プロ作家に対する礼儀」みたいな言葉を振りかざして、ユーモアも何もマッタクないようなうすら寒い一言で素人を嘲笑するような首領のシンパたちとは大きく異なるんじゃないかなア、とかやっぱり御大と首領は作風以前にまずその作家としての姿勢が大きく違うんじゃないかなア、なんて思うのですが如何でしょう。
とそんな譯で、南雲堂からリリースされた御大の一册ということに目をつけて、自らの繩張り拡張を目論む首領の暗躍に苦笑しつつ、眞っ當なミステリマニアや御大のファンであれば、そんなことは無視して本書に書かれている御大の本格ミステリに對する熱い思いを堪能するのが吉、でしょう。
……とあまりに普通に纏めてしまっては面白くないので、やはり最後は御大といえば定番のあのネタを引用して締めくくりたいと思います。敢えて強調文字は使いませんけど、何処に注目してもらいたいのかは、……言うまでもありませんか(爆)。
七三一部隊の問題を、アメリカはまだ忘れていません。関係した当事者は、アメリカ国内には終生入れないべきだという議論が、今も行われている。しかし強制連行や、従軍慰安婦の問題とともに、日本人にとってこれらは、今や縄文時代の記憶です。この無責任な庶民感覚は、すべて自分に責任がないと確信するが故です。われわれは、すべからく単なる生徒だったんです。
御大ファンは必讀、しかし本格理解「派系」の皆樣や首領のシンパは購入を差し控えた方がいいでしょう。マトモに讀めば御大と首領の相違は際だつばかりで、その器の差を思い知らされるだけですから。