極上のさりげなさ、日本語の恍惚。
一昨日、そして昨日と「虚無への供物」ならぬ「汚物」を讀了するのに一生懸命、ブッ壊れた日本語に散々付き合った結果としてこちらの頭はもうクタクタ。頭を正常に戻す為にも極上の日本語を注入しないといけない、という譯で、今日は日影丈吉の作品を取り上げてみたいと思います。
「幻影城の時代」を最近手に取ったこともあって、曰くつきの「夕潮」でも良かったんですけど、日影御大といえば、「夕潮」や「地獄時計」も捨て難いとはいえ、やはり個人的には短編でありまして、本作も以前紹介した「鳩」と同樣、早川からリリースされた幻想小説集です。
いずれも静的な物語空間にさりげなく怪異を語る風格が素晴らしい作品ばかりで、収録作は、語り手がふと見かけた家にまつわる恐怖譚「ひこばえ」、台湾を舞台に死者の復活を軽妙な一編に纏めた「闇夜」、豹ラブのカーキチ男へのインタビューがトンデモなオチで終わる「レンタ・カーの冒険」。
隣室に宿泊した怪しい男の謎に脱力ユーモアのオチが決まる「旅は道づれ」、ライオンと豹のガチンコ勝負を仕掛けたバカともが因果な仕打ちを受ける「砂漠の神」、異國で出會った繪畫に纏わる幻想体驗を綴った「ある絵画論」、台湾ゾンビの顛末に絶妙な幕引きが冴えわたる「魂魄記」、ゴム人間の跋扈する秘密國家を訪れた男の旅行記「旅愁」、夢見術にのめりこんだ男二人が政界の重鎮を引き合わせようと畫策する「あわしま――叉は夢の播種」の全九編。
「ひこばえ」は、ふと通りかかったところに建っている家が氣になって仕方がない語り手が、友人の探偵に頼んでその家の住人をしらべさせてみると、どうやらひどいことになっているらしくて、……という話。
住人とはマッタク知り合いでもない語り手がその好奇心をきっかけに、その家にまつわる怪異にのめり込んでいくまでの経緯が淡々と語られるのですけど、本作の場合、語り手が決して事件の渦中に飛び込んでゆくことなく、あくまで外側から事の顛末を眺めているという視點がいい。
この一歩退いたところから今起こっていることを淡々と語っていく風格が作者らしく、語り手をこの家に住んでいる住人とかに据えたらこの物語は完全にホラーへと轉んでいくんじゃないかな、という氣がします。
すべてが終わったあと、語り手はこの家の中に入っていくのですけど、ここでは人間を死に追いやった家の不氣味さとはまた異なる奇妙な感覚が描かれていて、それがひこばえという象徴とも相俟って不思議な餘韻を添えているところもまた見事。
これと同樣、事件から少し離れた視點が絶妙な幕引きをつくりだしているのが「魂魄記」で、前半、魂と魄は違う、みたいな話が逸話とともに淡々と語られたあと、語り手がヒョンなことから町中で昔の知り合いと再會します。で、彼女に促されて家に行くと、姪仔だという幽霊みたいな男がいて、こいつはどうやら死んでいるらしい。
幽霊かというと、こうして實體もあるのだから、……というところへ前半で語られた魂魄の語りが妙なリアリティを與えていて、語り手はこの不氣味男は魂魄でいうところの魄に違いないと確信、しかしこの物語世界ではアタリマエとなっていた怪異が語り手の心の中でひっくり返されるや物語は急展開。この變轉がまた見事で、推理によって不氣味男の正体を突き止めた語り手が果たして彼女に家に行くと、……。
ハシャぎまくらない落ち着いた文体から醸し出される惚けたユーモアも日影御大の最大の持ち味で、脱力スレスレの笑いが最後に開陳されるのが「旅は道連れ」。妻とともにとあるホテルに宿泊した二人はどうにも隣部屋の宿泊客が氣になって仕方がない。
ばかでかいトランクをひとつ持って宿泊している老人にはどうやら連れがいるようなのだけども、その姿が見えない。更に從業員の話を聞いてみると、どうやら部屋の中では怪しいことを行っている樣子。老人の留守を狙って部屋の中を覗いてみると、……とバカミスにも近い脱力の眞相が明らかにされる幕引きがまた堪りません。
収録作の中では一番の長さを誇る「あわしま――叉は夢の播種」は、「魂魄記」と同樣、怪異をアタリマエのものとして受け入れてしまう男二人の物語。二人は友人でありつつもお互いに與野黨の黨首の側近で、兩政黨の確執を憂慮する二人は、夢見術によって二人の黨首の心を操作して黨首の會談を畫策するのだが、……という話。
まずもって政界にドップリと両脚を突っ込んでいる大の男二人が大眞面目に夢見術を信じてしまっているという設定の馬鹿馬鹿しさがナイス。ここに語り手の男が夢で見た昔の女の子のエピソードも添えつつ、後半はこの夢見術の効果が発揮され、すわ黨首會談が實現かという流れに轉んでいきます。
夢をモチーフにした物語ゆえ、主人公の語りにも時に自らの見る夢が入り交じり、夢オチめいた轉換を織り交ぜながら進んでいくという構成も秀逸で、最後に友達が夢について語る言葉もまた素敵な餘韻を残します。
某異國を舞台にしながら不穏な雰圍氣を出しているのが「旅愁」で、静的な語りはいつもの日影節乍ら、負傷した人間に特殊な処理を施してゴム人間に杜立てあげているという設定がまず異樣。
何だかこれだけだと瀬名秀明氏の「モノー博士の島」みたいなんですけど、物語はこの暗い空氣のなか、語り手と女の隠微な關係をさりげなく添えつつ進み、最後にゴム人間ネタが唐突に繰り出されてジ・エンド。後味のイヤっぽさも含めて、収録作の中では浮きまくっている異色作ながら、ドンヨリと暗い異國の風景が妙に頭に殘る一編でしょう。
大傑作「鳩」のような、強烈な幻視力を喚起する作品は少ない乍ら、端正な文体によって織りなされる静的な語りに日本語の素晴らしさを堪能出來る幻想小説集。何だよ、「ぐげらぼぁ!」みたいな雄叫びがないと今フウじゃないじゃン!みたいなヤングには物足りないのかもしれませんけど、自分のような中年男にとっては極上の日本語を味わうことが出來る本作、「虚無への汚物」によって溶解したボンクラ脳をメンテナンスするには格好の一册でありました。