主観の煉獄。
「向日葵の咲かない夏」の衝撃度も相當のものでしたが、本作もこれまた見事な程に自分の好みでありまして、思い切り堪能しました。これは素晴らしい。
實をいうと、真備道尾シリーズ第一作目である「背の眼」は未讀なんですけど、この點は問題なし、巷の評判を聞くにつれ京極堂シリーズに似ているといわれていたからそんなものかなア、なんて考えつつ讀み進めていったのですけど、自分の印象としては京極というよりは雪崩連太郎シリーズ、ですかねえ。
いずれにしろミステリとしての結構、そして物語の全体を流れる不穏な空気、怒濤の推理、そして眞相が明らかにされることによって立ち上る人間の悲哀、その總てに完全ノックアウト。
從弟の結婚式に出席した道尾は、ホテルの予約がとれていなかったことから山間の仏所に宿まることに。部屋の四面に木彫りの佛像がズラリと竝ぶ宿坊の一室をあてがわれた道尾でしたが、佛像は小説のネタになると取材を開始、昼間にカメラを置き忘れた公房に足を向けると暗闇の中から「……オン……」「……マリ……マリ……」なんて奇妙な声が聞こえてくるわ、佛像はニヤニヤ笑うわ、白いモヤモヤが出現するわと吃驚仰天。
何でも、二十年前に佛像彫り師と一緒にマリという名前の女性が謎の失踪を遂げているらしく、昨晩耳にした奇妙な声はこのことに關連している樣子。後日この夜に撮影した写真を見てみると、佛像の一体が頭から真っ赤な血を流していることを發見した道尾は真備の元を訪れます。
この怪異に興味を示した真備と道尾が再び件の仏所を訪れると、駐車場には奇妙な血文字が現れ、佛像の眞上の天井からも奇怪な血痕が發見される。そして男たちが次々と失踪を遂げていく。いまこの場所ではいったい何が起こっているのか、そして二十年前の彫師とマリという女性の失踪事件との關連は、……という話。
何だかこう書くと怪奇小説風味のミステリ、みたいなかんじなんですけど、實際は本格の骨法に則った伏線と、後半の疊み掛けるような推理が素晴らしい本格ミステリです。ただそこは「向日葵」の作者でありますから、當然普通の物語ではありません。
例えば本作では、二十年前の二人の男女の失踪も含めて、次々と關係者が謎の失踪を遂げていくのですが、死体はまったく出てきません。普通のミステリの定石であれば暫くしてすぐに死体が發見され、死亡推定時刻だの關係者のアリバイだのといったところが讀者の前に提示され、そこから謎解きが始まるという趣向なんですけど、何しろ死体も出て来ないゆえ、そもそもこの場所で何が起きているのかが判然としない。
作中人物も含めて讀者の前に明らかにされているのは、笑う佛像だの、天井の不氣味な血痕だの、闇に響く奇怪な聲だの、白いモヤモヤだの、駐車場の血文字だのといった樣々な怪異ばかりでありまして、讀者はこの異常世界の出來事にただただ翻弄されるしかありません。
駐車場に血文字が現出したということで警察こそ呼ばれますが、何しろ死体の一つも出て来ていないゆえ、刑事たちのノリも今ひとつ。真備や道尾だけは、血文字や血痕といった事件性の感じられる事柄に着目して忙しく動き回っているんですけど、そのほかの連中は淡々と日常生活を送っているわけです。ここがうまい。
しかしこの淡々と彼らの日常を描いたところに樣々な伏線が凝らされてい、この意味が後半真備の素晴らしい推理によって明らかにされるところは最高にスリリング。當に本格のド真ん中を行く仕掛けが秀逸です。
「向日葵」に比較すると、いかにも普通っぽい作風ながら、同時に「いったい何が起きているのか」というところから讀者の目線を限りなく反らしていく物語の展開には共通するものも感じられます。「向日葵」では奇天烈にして幻想的な世界を創出し、それによって讀者を煙に巻いていたのに相反して、本作では日常の物語世界の中で周到に伏線を凝らしつつこの點を見事にこなしているという點から、本作の方が技巧としては洗練されている、という見方も出來るかもしれませんねえ。
そして読者の前に提示された怪異が後半の推理によって盡く回収され、それらによって怪異の背後で起こっていた事件の眞相が解き明かされていくという展開は最高。ひとつひとつの怪異に派手さはないものの、それらが推理によってひとつになった刹那に立ち現れる事件の真相の異樣さと悲愴。このあたりの風格がどことなく島田御大とも共通するように感じられるのですけど如何でしょう。
些細な齟齬が積み重なって、それがこの悲惨な事件を引き起こしたということが探偵の推理によって最後に明らかにされるのですけど、ここで登場人物の悲哀が怒濤の如く押し寄せてくるという結構も完璧で、このあたりは當に島田御大フウ。
本作を、御大がその昔、本格ミステリー宣言で示してみせた「幻想的で、魅力ある謎を冒頭付近に有し、さらにこれの解明のための、高度な論理性を有す小説」というところの當にド真ん中を狙った小説と見ることも出來るでしょうし、叉その一方で、上にも述べたような、ミステリとしては定番の展開を盡く外れた結構に「向日葵」にも通じる斬新性が濃厚に感じられ、自分的にはこのあたりを評価したいところですよ。
しかしここまであからさまな手掛かりが提示されているのに、作中で何が起きているのかがサッパリ把握出來ないゆえ、事件の全貌が・拙めないというこの仕掛けには参りましたよ。ド派手なトリックなどなくても、見事な伏線とその見せ方、さらにはそれらを盡く回収していく推理の手捌きが素晴らしければ極上のミステリを仕上げることが出來るということを示してみせた本作、個人的にはこういう作品をもっともっと讀みたいなアと期待してしまうのでありました。次作が待ち遠しい、といいつつ、まだまだ自分には「背の眼」があるので、とりあえずこちらに取りかかりたいと思います。樂しみですよ。
ただ自分みたいに「向日葵」の強烈な幻視力に魅了されて作者のファンになった方には少しばかり注意が必要かもしれません。本作は表向き幻想小説というよりは、怪奇小説や普通のミステリの結構に近く、「向日葵」の幻想的な雰圍氣を期待すると肩透かしを喰らってしまうかもしれませんのでこの點は御注意のほどを。ミステリも好きな幻想小説マニアであれば満足出來ると思います。
それと餘談なんですけど、血を流す佛像の眞相は何となく、ハードロマン以前の寿行センセっぽくないですか。