今月の「推理野葡萄」における島崎博御大の「推理小説縱横談」は「推理小説的原點」と題して、ポーの五篇の小説から推理小説の原點を探る、という内容です。因みに副題は「愛倫・坡五篇推理小説(上)」。
前編となる今月號はお馴染み「モルグ街の殺人」と「マリー・ロジェの謎」を取り上げているのですが、ノッケから「ポーとは」なんていう出だしで始まるものですからミステリビギナー向けの軽い内容かと思いきや、なかなかどうして、いかにも御大らしい含蓄を含んだ考察と着眼點は流石です。
まずこの稿で取り上げられているポーの五篇は「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」、「黄金虫」、「お前が犯人だ」「失われた手紙」。で、ポーからミステリの起源を讀み説いた論考といえばまず思い浮かぶのが島田荘司の「本格ミステリー宣言」ですよねえ。
ちょっとぱらばらと頁をめくってみたんですけど、この本の中で島田氏が取り上げているポーの作品は「モルグ街」「盜まれた手紙」「黒猫」「黄金虫」「マリー・ロジェの謎」の五篇。島崎御大と微妙にセレクトが違うところにちょっと注目、でしょうか。
「本格ミステリー宣言」において述べられている本格ミステリーの定義といえば、例の「幻想的で、魅力ある謎を冒頭付近に有し、さらにこれの解明のための、高度な論理性を有す小説」という言葉に集約される譯ですが、島田氏の主張が、「幻想性」「高度な論理性」といった、ある意味抽象的な言葉で本格ミステリーという小説の形式を支えている土台を明らかにしたものだとすれば、今回の島崎御大の「推理小説的原點」は、島田氏が敢えてこの本格ミステリーの定義を確立する中で意図的に退けてきた、ミステリを形成している樣々な諸要素を探っていこうというもので、いうなれば、土台の上に建てられた建造物の骨格に相当するものとでもいえば良いでしょうかねえ。
例えば「モルグ街の殺人」における考察では、「記述形式」「探偵の類型」「推理と謎解き、そして謎が解明される過程」、「犯人、動機、そして結末」といった三つの視點からこの作品を分析していきます。例えば「記述形式」において、事件の過程を記述する、いわゆる「偵探的助理之記述形式」(探偵の助手が記述する形式)であり、探偵となる人物には一風変わった個性的な人物(個性不同凡響的)を職業探偵として配し、その推理においては、犯罪の現場検証と証言から推理を行い、証拠を明らかにするとともに、そこから犯人を指摘する「帰納法的推理」が行われている、というかんじです。
一方の「マリー・ロジェ」においても、「記述形式」「犯罪計画、推理、謎解き」といったところから分析がなされ、「記述形式」の項においては、「モルグ街」と同樣「私」の視點から描かれるいわゆる「シリーズ探偵もの」であることを明らかにし、次の項では、「探偵が警察の要請によって事件に正式に介入する」という展開を「業餘偵探正式介入偵探工作」として挙げています。
この二篇の考察において興味深いなと思ったのは、「モルグ街」の犯人の動機に言及しているところでしょうか。「意外な犯人」というのはこの作品を語る上で必ず引き合いに出される譯ですが、この犯人の動機の面まで踏み込んでみせた考察は自分にとってかなり新鮮でしたねえ。
そして犯人、動機、推理、謎解き、探偵の類型といった項目とともに、記述形式を独立したひとつの項として挙げているところにも注目でしょうか。そしてこれらが千街氏の「水面の星座 水底の宝石」で取り上げられていた内容と奇妙な照應を見せているのは偶然ではないでしょう。
例えば探偵は勿論のこと、謎解きは多重解決に、そして記述形式は叙述トリック、という具合に、島崎御大がポーの五篇の中から抽出してみせた推理小説の諸要素は、ミステリ史の中で技巧を発展させていった結果として、千街氏のいう一見「歪み」に見える形へと変容を遂げていったのではないか。
つまり、「水面の星座 水底の宝石」で取り上げられた數々の内容は一見、正統なミステリにおいては「歪み」のように思えるものの、実はそれこそはミステリという小説形式が宿命的に孕んでいる(乃ち、推理小説の原點であるポーの小説中にも含まれている)エッセンスであるという自分の理解と奇しくも一致しているのを発見してしまったようで、ひとりニンマリしてしまったのでありました。いや、ここは千街氏の洞察力の深さと技芸の巧みさに驚くべきでしょうかねえ。
それともうひとつこの「推理小説的原點」と「本格ミステリー宣言」「水面の星座 水底の宝石」を比較して感じたことなんですけど、やはり実作者である島田氏と、島崎博御大そして千街氏の文章ではまずその語りの方法が大きく異なるというところでありまして。
「本格ミステリー宣言」中、氏が本格ミステリーの定義を明らかにしていく文章の中で目につくいいまわしというのが、例えば、
まず第一に「幻想味ある、強烈な謎を有する謎」を冒頭付近に示すこと。これは「詩美性のある謎」と言い換えてもよい。あるいは、これを釀し出すための「雰囲気」、「道具だて」などが必要である、と言い換えることも許されるであろう。
第二のそれは「論理性」、「思索性」である。この論理性の精緻さは、それだけで感動を呼ぶレベルのものでなくてはならない。
「必要である」とか「なくてはならない」とか、何というか簡單にいうと「そうじゃなきゃダメ」といっている譯ですよ。一方、千街氏や島崎御大の実作に対する考察においてはそういうニュアンスの言葉は當然出てきません。
これは島田氏の「本格ミステリー宣言」がこれからミステリを書こうとする者に対して向けられたものであるのに比して、千街氏や島崎御大の文章は、ミステリ史におけるその作品の位置付けや実作の内容そのものの分析考察に向けられていることの違いでしょう。
島田氏の言葉がこれから生まれてくるミステリに対して向けられたものだとすれば、千街氏や島崎御大の視線はミステリ史の変遷の中にある作品、つまりすでに書かれたものに対して向けられている、とでもいうか。
さて、ここまで述べれば次に自分が何をいいたいのか、おおよそ分かっていただけると思います。そう、某氏、……っていうかもうバレバレなんで、名前を出しますけど、二階堂黎人氏。
二階堂氏のいう「例の件」の最大の問題っていうのは、本來であればこれから生まれてくる作品に対して向けられるべきものいいを、すでにミステリ史の中に組み込まれている実作に対してやってしまった、というところにあるのではないかなあ、と。まあ、これ以上このことについて書こうとするとまたまた長くなってしまうので、このくらいにしておきますか。
という譯で、この島崎博御大の「推理小説的原點」、來月の後編も期待ですよ。
その他、今月號の記事で日本のミステリファンの興味をひきそうな内容というと、「新年新氣象、新人面孔」と題して、今年台湾デビューする日本の作家を取り上げたもの。要するに近々台湾で作品がリリースされる予定の日本人作家を簡單に紹介している譯ですが、面子は舞城王太郎、西尾維新、法月綸太郎、二階堂黎人の五人。紹介されている順番は上に挙げた通りですよ。つまり舞城氏がトップ(二階堂氏、これ見たらキレそうですねえ)。
ちなみにリリースされる作品ですが、舞城氏は「煙、土或食物」(煙か土か食い物)、西尾氏は「斬首循環—藍色學者與戯事跟班」(クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い)。法月氏は「去首問人頭ba」(生首に聞いてみろ)、二階堂氏は「恐怖的人狼城—第一部徳國篇」(人狼城の恐怖〈第1部〉ドイツ編)となっています。