讀みましたよ。
自分の感想を簡單に纏めますと、以下のようなかんじですかねえ。
笠井氏の論法は、巽氏が二階堂氏の掲示板で展開してみせたものと同じ。つまり「推理」や「証拠」といったものにおいて、二階堂氏のいうような條件を滿たしていない作品は探偵小説史上無數にある。つまりこれを「推理」ではなく「推測」であるとして、あの作品を本格推理小説ではないとする二階堂氏の主張は間違っている。
この作品において探偵役は「推測」することしか出來なくても、讀者には「推理」することが可能である。そして讀者にはそれを「推理」するための手掛かりがシッカリと提示されている。
上の点を述べた笠井氏の主張を簡單に抜粋すると、
「推理」に必要な「証拠」を、法廷でも通用するような物証と解するなら、その条件を欠いた推理は探偵小説史上無数にある。
このあたりは巽氏の主張と同じものと理解してもいいですよねえ。
作中の探偵役と読者は、提起されている謎も違えば与えられるデータも違い、両者の立場は決して同一ではない。探偵役は「推測」することしかできないにしても、読者には「推理」することが可能なのだ。むろん、ここでいう「事実」も「真実」も「証明」も、すべては歴史的に累積された探偵小説の世界でのみ成立する事柄にすぎない。人間の自由意志が介在する世界で数学的な論理的必然性を期待することなど、原理的に不可能である。
上の文章からも分かる通り、笠井氏の主張で際だっているのは、氏もまた巽氏と同樣、探偵小説の歴史を繙きながら本格推理小説に關わる事柄を把握しようとしていることでしょうかねえ。一方、二階堂氏は、笠井氏のいう「歴史的に累積された探偵小説の世界」からは目をそらしつつ、マイ本格推理小説の定義をブチあげようとしているところが決定的に異なります。
まあ、そういう譯で、既に巽氏の文章を讀んでいて、この議論については既に「詰んでいる」のを見てしまっている自分にとって、笠井氏の主張は眞新しいものではありませんでしたよ。
そういえば二階堂氏、本稿において笠井氏は本格系評論家が「容疑者X」の内容をチャンと分析しておらず、印象的感想を垂れ流していることを批判している、なんていってましたけど、何処が、なんでしょう?自分が讀んだ限り、この稿の内容のほとんどは二階堂氏の主張する「推理」と「推測」に關する反論へと費やされていて、冒頭と末尾にチョロッと「それらしいこと」を書いているに過ぎません。
まあ、その部分だけ引用しておきますと、
難易度の高い技に挑戦し、みごとな成功を收めたとは評価できない作品に、ジャンルの専業的作家や評論家や中核的読者など、昔なら「探偵小説の鬼」といわれたような人々が最大限の讃辞を浴びせかける。この異樣な光景に、『容疑者Xの献身』をめぐる最大の「謎」、あるいは最大の「問題」が見いだされなければならない。
どうして「探偵小説の鬼」たちは、初心者向けの作品を本格探偵小説の傑作として絶讃しうるのか。『容疑者Xの献身』が本格であるかどうかなど、本当は些末な問題である。
まあ、こういう前振りをここで書いておいて、詳しくは「ミステリーズ!」での連載をお楽しみに、ということで纏めています。
一應ここで興味深いな、と思ったポイントを書いておきますか。
笠井氏のいう「謎」「問題」は、二階堂氏のいうような、本格系評論家のみに向けられたものではなく、作家やミステリマニアといった読者をも含めた現象の中にあると考えているようです。だから二階堂氏の理解はちょっと、というかかなり違うのではないかな、と思うんですけどねえ。
更に言えば笠井氏の本旨は『容疑者X』を賞讃する人物(評論家、作家、読者)を批判することではなく、そのような「現象」の考察に向けられている。人物批判とか、そういう簡單な問題ではない譯ですよ。この原稿を讀んで、この内容の本旨は本格系評論家への批判である、みたいなかんじで曲解してしまう二階堂氏、相當にヤバいのではないでしょうかねえ。
笠井氏がここでいう「本格ジャンルの荒廃」というテーマは、氏だけじゃなく、作家や批評家も含めたすべての人間が少なからずは把握しているものでしょうし、それを本格系評論家の問題「のみ」に歸することなど出來る筈もありません。そう簡單で單純な問題ではないと思うんですよ。
更にいえば、笠井氏はこの「現象」や「問題」の考察についてはこの稿で述べることはせず、「ミステリーズ!」において續ける、と書いています。從って、紙數の殆ど總ては二階堂氏の主張への反論で成り立っている譯ですから、これをもって笠井氏は巽氏たち批評家を批判している、といってしまうっていうのは、明らかな誤讀ではないんですかねえ。或いは、自分のような素人では簡單には讀み解けないようなことを笠井氏はこの稿で書いているんでしょうか。
そういう譯で、この稿のみをもって笠井氏が本格系評論家を批判している、とは全然讀めませんでした。この笠井氏の文章を讀まれた方で、何処をどういうふうに解釈すれば、この原稿が本格系評論家批判と解釈出來るのか説明してくれませんかねえ。莫迦な自分には分かりませんよ。
それともうひとつ。これは結構重要かもしれませんけど、笠井氏は本格推理小説とは呼ばず、「本格探偵小説」と書いています。二階堂黎人氏の本格推理小説の定義及び、それに対する自らの本格推理小説観についてはこの稿の中では言及しておりません。という譯で、まず二階堂氏の次なる反論としては、以下のような展開が予想されますかねえ。
「だったら笠井さん、貴方の本格推理小説、或いは本格探偵小説の定義をハッキリさせてください」
しかし自分が予想するに、以下のようなアクションで總ては終息してしまうのではないかと思うんですよ。
「分かりました、笠井さん。またこの件については今度スキーでご一緒したときにゆっくり語り合いましょう(笑)」
このエントリでは二階堂氏の稿については何も書かなかったんですけど、こちらは殆どの内容が氏のサイトで再三再四述べられているものに過ぎませんでした。ただ、それ以外にもかなり興味深いことも語っておりまして、これについてはまた次に述べたいと思います。という譯で、以下次號。
[01/25/06: 追記]
笠井氏は「ミルネヴァの梟は黄昏に飛びたつか」でもこの件について取り上げていました。ここでは本格探偵小説の定義について二階堂黎人氏に意見していますねえ。簡單に引用すると以下の通り。
なにを本格探偵小説の領域に組み入れ、なにを組み入れないかを決定するのは、乱歩のような権威者ではない。ジャンル全体の意識的、無意識的な意思である。この集合的意思を測定して、乱歩もまた倒叙作品を探偵小説として承認したのだろう。時代が変われば本格探偵小説の領域も変化することを、われわれは承認しなければならない。
倒叙作品や叙述作品は本格探偵小説に含まれないと,二階堂黎人が主張してもかまわないが、それでは大方の賛同は得られないだろう。
「時代が変われば領域も変化する」という點には全面的に同意しますよ。