スミマセン、書いていたら凄く長くなってしまったので、以下は興味のある人だけ、ということで。
何だか昨日から某氏、……っていうかもうバレバレなので、二階堂黎人氏ってハッキリ書いてしまいますけど、氏の掲示板に巽昌章氏が反論を投稿してなかなかステキなことになっていますね。
で、今朝方、たけ14さんのブログ「猫は勘定にいれません」で二階堂氏が巽氏の反論に意見しているということを知って、見てみたんですけど、……うーん、何というか、完全に議論が噛みあっていませんよ。
まず巽氏が掲示板に投稿した内容なんですけど、自分としては當にその通り、と頷ける點が多く、この議論、二階堂氏の本格推理小説観には「推理とは何か」の考察が缺如している、ということを指摘している時點で詰んでいると思うんですよ。
だって二階堂氏が「容疑者X」が(氏のいう)本格推理小説ではない、っていうことの根拠はここ、つまり(氏のいう)本格推理小説の三條件の三番目を滿たさないからダメ、っていうことだった譯で、巽氏の反論というのはこの三番目の要件を安易に本格推理小説の三條件に含めてしまうことに關しての反論だと思うんですよ。
しかしまあ、二階堂氏はこの點に關しては完全にスルー。で、巽氏を含めた批評家が自らの本格観を明らかにしないことに拳を振り上げてみせている譯ですが、一方の巽も本格の定義云々に拘泥することには意味がない、とこれまた上の本格推理小説の三條件にダメ出しをしてみせたのと同樣の反論を行っています。しかし二階堂氏的にはこの點に關しても、そんなのは認められない、何としても定義しろ、と鼻息も荒く批評家たちに迫ってみせている、……というのが今の流れでしょうかねえ。
巽氏が投稿した内容の趣旨は上に書いたような「推理とは何か」の考察が總てだと思うのですけど、寧ろ自分が素晴らしいと思ったのは以下の點でして、まあ、細かいことなんですけど、自分的には結構ポイント。
「1-2 他者の意見に対する侮蔑」の中の一節。
しかし、投票のコメント欄で本格観を詳述せよというのは無理だから、本気で本格論議を求めているのなら、まず彼らに本格観と評価理由の説明を求めてから批判すべきです。
この點は自分が「「野葡萄」 2005 十二月號 島崎博御大の批評「盲目與大膽」と某氏の批評家批判」でいいたかったことでもありまして、そもそも年末のランキングというのは一種の祭であって、これが論評論考である筈がありません。それを論、評、談を混同して文句を垂れたりするから珍妙なことになってしまう譯で。ここは巽氏のいうとおり、批評家が論評論考で述べている意見についてのみ反論を行うべきではないでしょうかねえ。何故かくもランキングごときにそうまで腹をたててしまうのか本當に不思議ですよ。
むろん、評論家など遠慮なく叩いてよいし、的確な批判ならいくら辛辣であってもかまわない。急所への一撃で倒されるのなら、仕方のないことです。ところが、二階堂説にみられるのは、自制から生まれる辛辣さとは反対の、一方的な思い込みで他人を誹謗しながら、自分は本格への愛情から行動しているのだと言い訳するたぐいの甘えです。
巽氏、ここでもかなり辛辣なんですけどその通りですよ。これも自分が上のエントリでいいたかったことでありまして、こういう二階堂氏の態度は盲目的嘗試だと思う譯です。
本格推理小説は、誰か特権的な創造主が作り上げ、ルールを定めたものではありません。……経験的に、その中を貫くぼんやりした本質の姿を直覚することはできるかもしれないし、個々の論者が、自分の掴まえたと信じる本質を論じ合うこともできるが、確固とした定義のような形で、ひとつの「正解」が出るものではない。本格も、本格の魅力も、簡単には掴みがたい謎です。
一番感銘を受けたのはやはりここですよ。「本格ミステリとは何か」という問いかけ、そしてそれに答えていこうとすること自體が本格ミステリ批評家の使命である、ということですよね、これって。そしてこの謎自體がまた本格ミステリの内包する大きな魅力のひとつである、と自分は思うんですよ。
だからこそ、自らが持っている本格ミステリ観を覆してしまうような超弩級の作品に出會えた時、例えば「イニシエーション・ラブ」や「赫い月照」や「紅樓夢の殺人」などを讀んだ時、自分は大變感動してしまった譯ですが、ここがどうも二階堂氏の場合は違うみたいなんですよねえ。
自分の本格観にそぐわない作品に出會うとフザケンナと腹をたててしまう。そこが普通の本讀みとは大きく違うところなのでしょうねえ。まあ自分だって莫迦な一ミステリマニアに過ぎない譯で、その作品の本質を見拔けずにツマラナイと感じてしまうことも當然あります。しかしそんな時に、その作品をどういうふうに讀み解けばいいのかを的確に指摘してくれるのが批評家の方々、……というか、批評家のなすべきことのひとつがこれでしょう。まあこの點に關しては千街晶之氏の傑作評論「水面の星座 水底の宝石」のエントリで述べた通りですよ。
第一、面白い本格を求める読者の声にこたえるには、定義がどうとか、あれは本格じゃないなどというより、本格の面白さを多方面から解明したり、「こういう工夫をしたらもっと本格は面白くなる」という提言をした方がはるかに有益でしょう。
という巽氏の言葉こそは自分が批評家の方々に期待していることマンマですよ。
で、ここまでいっても本格の定義にこだわり續ける二階堂氏なのでありますが、何故にかくも本格の定義に拘泥するのか。以下は自分の想像、というか妄想。
「容疑者X」の本格批判に關しても(氏のいう)本格推理小説の三條件の三番目、フェアプレイに基づいたジャンル的技法を持ち出してくるあたりから、二階堂氏にとっての本格推理小説っていうのは、小説である前にまずパズル、ゲームなんじゃないですかねえ。そう考えると、氏が「容疑者X」を純愛だの何だのと持ち上げることに關してあからさまな不快感を示す理由が説明出來ると思うんですよ。
だってゲームやパズルにそういう感動だの何だのっていうのは必要ない、というより寧ろ邪魔ですよねえ。更にいえば、こういうゲームやパズルであれば、その何たるか(ルールなど)を理解する為に「勉強する」必要も生じてくる譯で、氏が批評家たちに對して、初心に返ってもう一度本格を勉強しなおせ、なんていってしまう理由も納得出來る。もっと大袈裟にいってしまえば、氏のいう本格推理小説っていうのは物語性を否定しても成立するものなんじゃないかな、と考えてしまうのでありました。
しかし批評家や自分のようなミステリ好きにとって、本格ミステリというのは、ゲームやパズルである前にまず小説なんですよ。で、小説だからこそ、多樣な讀み方も可能であるし、時にはその作品の深奥に迫ることの難しさも生じる譯で、そこに自分のような頭の悪い讀者が批評家の方々を必要とする理由もある、というふうに考えたりするんですけど、如何。
ちょっと長くなってしまいました。次に二階堂氏が昨日日誌の方に書いた反論(のようなもの)を讀んでみて感じたことを少し。
感想5の中で、批評家は個々の作品ごとに本格かどうかを定義もしくは判断するらしい、なんて書いていますけど、これは上にも述べた通り、「本格とは何か」という問いかけを行い、その答えを見いだしていく作業そのものが本格ミステリを批評するものの使命のひとつな譯で。この二階堂氏の意見は、巽氏のいいたいことをまったく取り違えているような氣がしますよ。
それともうひとつ。巽氏も含めて二階堂氏がフザケンナといっている批評家の方々すべてが本格ミステリの批評「だけ」を生業にしている譯ではないですよねえ?彼らはミステリの批評家なんであって、本格「だけ」じゃないと思っているんですけど違うんですか?まあ、假にそうであったとしても、「本格とは何か」という問いかけを行うには當然「本格ミステリ」周邊の小説を讀みこなしていく必要がある譯で、批評家が自らの作業の中で通過していく小説の數々が二階堂氏のいう本格推理小説でなくても全然不思議じゃありません。
感想6の中で、二階堂氏は「容疑者X」の、「どこが感動」で、「どこが純愛」かを具体的に説明しろ、なんて迫っていますけど、二階堂氏の本格推理小説三條件、そして四要素にも「純愛」と「感動」は含まれていないので、これを論じること自體不毛でしょうに。それとも最近になって「純愛」や「感動」が新たに氏のいう本格推理小説の三條件または四要素の中に追加されたんですかねえ。まあ、このあたりは意図不明です。だから「純愛」「感動」云々の個所を巽氏が無視するのは當たり前のことでしょう。
あと話が前後してしまいますけど、感想2の中で、推理作家が一番尋ねられることとして、その問いをミステリとは何か、本格とは何かというものだと書いているんですけど、そうなんですか?皆さん、一讀者としてそういう問いかけをミステリ作家にしたいですか。
いや、二階堂氏にその問いを投げかけたいっていう氣持はありますよ自分も(爆)。だってここでも何度も書いている通り、氏のいう本格推理小説とは何なのか、自分は全然分かっていませんし(例えば三條件と四要素との關連性とか)。しかし普通のミステリ作家にそういう問いかけをしたいとは、少なくとも自分は思いませんねえ。「先生にとって面白い小説とはどんなものですか」というのは是非とも聞いてみたいものですけど。この點に關してはそんな質問ばかりを讀者から受けてしまう二階堂氏が特別なんだと思いますよ。もっともそれだけ氏のいう本格推理小説というのが何なのかよく分からないからそういう質問ばかりを受けてしまうのでは、なんて自分は考えてしまうんですけど違うんですかねえ。
感想3で、巽氏に對して反論を受け付けないというのはズルいっていってますけど、この點に關しては、本格とは何か、という議論自體が不毛だと巽氏も述べている譯で。それに今回の二階堂氏の反論を讀む限り、巽氏とはいくら意見を交えてもすれ違うばかりでしょう。巽氏は二階堂氏の主張を根本から覆すような反論を試みているのに對して(三條件そのものへの懷疑、本格の定義の不毛性)、二階堂氏はその點を無視して議論を継續しようとしている譯ですから。
感想4でも「容疑者X」は本格なんですか、とか本格だとしたら何処か面白いのか、と讀者に聞かれたら何て答えるんだ、といってますけど、そもそも自分のような讀者は「容疑者X」が本格かどうか、なんていうことはどうでもいい譯で。こんな珍奇なことをいいだしたのは二階堂氏自身。氏がこんなことをいわなければ誰も「容疑者Xが本格か」なんてことには關心を持たなかったと思うのですけど如何。
感想7に關しては、上で島崎博御大の批評を取り出して述べた通りの感想しかありませんよ。時に今回の二階堂氏の本格推理小説論に端を発したこの騒動、海の向こうの島崎博御大が讀まれたらどんなふうに感じるんでしょうねえ。
で、最後に一番氣になる二階堂氏の発言は、「ちょっと話がずれるが」から始まる一節でありまして。二階堂氏、ここで麻耶雄嵩氏の「神様ゲーム」が本格としてどのように優れているのか、自分には解らなかった、なんてブチあげているんですけど、ちょっとちょっと。
「2006 本格ミステリベスト10」と二階堂黎人氏の批評眼ランキング」のエントリで書きましたけど、この、氏が「本格としてどのように優れているのか分からない」といっている「神様ゲーム」を、本格ミステリベスト10で一位に投票している日下氏を氏は自らの批評眼ランキングで三位から一位に昇格させているんですよ。
これはいったいどういうことなのかと。日下氏の批評眼ランキングを一位に昇格させたのは、「神様ゲーム」は(氏のいう)本格推理小説である、ということの意思表明だと思っていたんですけど違うんですかねえ。さっぱり分かりませんよ。巽氏に本格の定義を求めるのであれば、まずは二階堂氏自らが批評眼ランキングを決めた際の評價基準を明確に示してほしいッ!と思ってしまうのは自分だけでしょうかねえ。
まあ、そういう譯で、巽氏の迎撃によって面白い展開になってきましたけど、実はこの件、今回の巽氏の反論によって既に詰んでいると思うんですよ。從って次に期待なのはやはり今月號のミステリマガジンですかねえ。
[01/17/06 追記]
なんて書いておいて、結局今日の氏の発言についてまた長文を書いてしまいましたよ。自分、本當にシツコイです(爆)。