本年度の横溝正史ミステリ大賞受賞作である「首挽村の殺人」に對して、本格理解「派系」作家の首領が「人物の書き分けが悪い」とバッサリしていたことがずっと気になっておりまして、それではと本家横溝ミステリの長編作品を再讀して何処がどう違うのか比較してみようと思い立った次第です。
見立て殺人に首絡みということで「悪魔の手毬唄」にしてみたものの、やはり本家は違うというか、「首挽村の殺人」が「21世紀の横溝正史だ」としたらこれはもう、完全に自分は正史ミステリをマッタク分かっていなかったというか、語る資格なんかないんじゃないかなア、と頭を抱えてしまいましたよ。
と言うか、もし「首挽村の殺人」が現代の横溝ミステリだとしたら、こりゃア、横溝は社会派でもあったという譯で、本格理解者が崇拝する大横溝は彼らの宿敵社会派の首魁でもあったということになってしまうのではないか、とか、色々と思うところはあるのですけど、とりあえずこのあたりはスルーして、今回は「人間が書けてない」とか「人物の書き分けが悪い」とかいう評価に焦點を絞って、話を進めていきたいと思います。
で、本作を再讀しての感想なのですけど、「首挽村の殺人」のところでも述べた通り、その風格は横溝ミステリと比較するに、謎と推理に對するスタンスから、物語の結構、そして肝心の登場人物の配置に到るまで、あまりに違いすぎるように感じられます。
本作でも、本鬼頭と分鬼頭や東屋と西屋と同様に、仁礼家と由良家と確執が事件の結構をなしているところがキモで、「首挽村の殺人」がこの二つの家の確執を缺いていたところは前に述べた通りなのですけど、今回はやはり事件をどのように描いていくかというところに着目してみます。
物語は鬼首村の手毬唄の解説から始まり、お馴染みの探偵金田一が村を訪ねていくと、イキナリ磯川警部から昔の未解決事件を聞かされるという展開です。で、村出身のアイドルの凱旋をきっかけに、手毬唄をトレースした見立て殺人が大発生。絶倫男の謎の失踪も絡めて、過去の未解決事件に遡りつつ、村の外からやってきた探偵金田一が最後にはその謎を解く、……というこれまた定番の終わり方で締め括ります。
本作でも「首挽村の殺人」と同様、金田一にアイドルという、餘所から人がやってきた矢先に殺人が発生するというところは同じではあるものの、この餘所者が件の事件にどのように絡んでいくのかというところが異なります。
「首挽村の殺人」では外からやってきた醫者が、かつて村で不審死を遂げた友人の謎を調べているようでもあり、或いは他に何かを隠しているようでもあり、……という譯の分からない雰圍氣をムンムンに振りまきながら、その傍らで見立て殺人が起こるのですけど、まずもって因習を持った村にとっては餘所者の男が第三者的、客観的な立場で事件を俯瞰しつつ謎解きを行うという、このテの本格ミステリでは定番の結構を採用していないところが獨自色。
「首挽村の殺人」で探偵役を演じる人物二人のうち一人は警察關係者であるものの、もう一人の人物は冬休みで帰郷している身分とはいえ村からすれば身内のものだし、そもそも村の因習に大きく絡んでいると思しき見立て殺人を前面に押し出しつつ、この人物が探偵役を買って出るところにも、物語の外にいる讀者にしてみれば果たして客観性は担保されるのかとか疑問符がついてしまう譯ですけど、それ以上に、イチバンの餘所者であるこの醫者が、友人の不審死についてそれを調べていく過程ではいかにも曰くありげに振る舞いつつも、探偵然としていないところが、横溝ミステリの定番的展開に慣れ親しんでいる者からすれば違和感がもうアリアリ。
勿論「首挽村の殺人」の作者がこういった定番的配役を採用しなかったところにはキチンとして理由がある譯ですけど、横溝ミステリというコード型本格の定番的結構を前面に押し出しつつも、配役に關しては奇妙な捻れが起きているがゆえに、讀者としてはどうにも作中の登場人物たちに馴染めないのではないかという氣が、個人的にはしてしまう譯です。
本來であれば探偵役を演じるべき外から来た醫者男をさしおいて、物語が進むにつれて下宿先の娘っ子が出しゃばるように探偵役を買って出てしまうところとか、この醫者男が物語の外からいる讀者からすれば、第三者的な視點から村の因習を観察しながらその事實を讀者に隱すことなく開示すべき役割である筈なのに、何だか隱し事をしているようでもあり、またそれ以上の何かをやらかしているようでもある。
物語を讀み進めていくうちに、本作の上面の結構は横溝ミステリに典型のコード型本格をトレースしながらも、その配役においてはは限りなく讀者の期待から逸れていくが為に、それは横溝ミステリ的展開を頭に思い描いている讀者の「讀み」や「配役」と奇妙なずれを起こしていきます。
そうなると、物語を讀み進めている中盤で、頭に思い描いている横溝ミステリ的な結構を期待している部分を取り払って、登場人物たちの配役も含めて頭の中を一端リセットしなければいけません。物語の中では特權的地位にある探偵役を務めるべきであった醫者男は凡役へと格下げにして、探偵気質をムクムクと持ち出してきた下宿屋の娘っ子を探偵役に昇格、……なんてかんじで、「探偵小説の中においてあるべき配役」と「作中の事件における人物配置」のずれを頭の中で修正してしまうと、当然ここでリセットされたぶんだけ登場人物たちの印象が薄くなってしまうのも必然でしょう。
勿論、本格ミステリにおいては、この配役の転換を物語の中盤、或いは推理の部分で見せることにより讀者を驚かせるという仕掛けもありえる譯ですけど、「首挽村の殺人」の場合、この乖離は仕掛けとして機能してはいません。期待されている横溝ミステリの結構と本作の作中人物との配置の間にこの乖離が存在するところが困りもので、これは本作を横溝ミステリ的なコード型本格として期待して讀み進めていけばいくほど症状が激しくなってしまうというところがまたかなりアレ、な譯です。
そういう次第でありますから、本格理解者であればあるほどこの乖離感は痛烈であるに違いなく、「人物の書き分けが悪い」という感想も、個人的には納得出來てしまう譯ですけど、ではこういった乖離を問題とせず、或いはこの乖離を表面化させずにあの物語を構築する方法はなかったのか、と考えると、――自分のようなボンクラのド素人でも一つ、非常にうまい方法を思いついてしまいます。
即ち、本作「悪魔の手毬唄」のように、餘所者の視點からこの事件を記述していくというやりかたでありまして、「首挽村の殺人」でいえば、下宿屋の娘っ子の視點ではなく、この村にやってきた醫者男の視點から物語を描いていくことになるでしょうか。
しかし本格理解者が、その作品を本格ミステリであるか否か、というところで拘泥してみせるある理由ゆえに、「首挽村の殺人」ではそれが出來ないことが分かります。そしてこれはある意味、最近六十年代生まれの人間は本格ミステリ界に貢献する資格ナシと豪語する(だからそこまで言ってないって)笠井氏が再三再四、本格理解「派系」作家の首領を口撃しているある主題とも結びついていく譯ですけど、……個人的にはこのあたりも絡めて、「首挽村の殺人」では何故横溝ミステリの登場人物配置から乖離してこのような書き方になってしまったのか、というあたりを本格理解「派系」作家の首領には讀み解いてほしかったなア、と思いつつ「人物の書き分けが悪い」と一言でバッサリしてしまったのには殘念至極。
評論家とはまた違った、創作者の視點から本格推理小説の原則を適用しつつ、「首挽村の殺人」の「人物の書き分けが悪い」部分をどのように改善、或いは修正出來るのかというあたりにボンクラの自分などは興味津々だったりするのですけど、首領には笠井氏への反論にも絡めて、このあたりを語ってくれないかなア、と期待してしまうのでありました。――この話は首領の作品の風格と比較しつつまだ續くかもしれません。