御手洗遺伝子發動。
柄刀ミステリにハズレなし、というのが自分の頭の中にはありまして、実際本作も不可能犯罪を中心に据えながら、社會派的な視點や幕引きの詩情も美しい短編の収められた一冊で、大いに堪能しました。
収録作は、飛び降り自殺の屍体消失という不可能趣味に車椅子探偵の推理が光る「人の降る確率」、放火現場から屍体が一ツという不可能犯罪にトリックのネタを大胆に開陳しながらも極上の推理で見せてくれる「炎の行方」、神楽の舞いから逆説的な反轉の構圖が炙り出される傑作「仮面人称」、密室のコロシにあるモノをアレした奇想が素晴らしい「密室の中のジョゼフィーヌ」、そのトンガリぶりに何度讀んでも正直あまりピンとこない二十一世紀本格の問題作「百匹めの猿」、男に起こった奇蹟に社会派らしい視點を添えた表題作「レイニー・レイニー・ブルー」、ガス殺しに意想外な眞相が明らかにされる「コクピット症候群」の全六編。
黒手袋にカラーコンタクトという奇天烈な出で立ちの毒舌家、という車椅子探偵の造詣がまずステキで、ズバリと本音を口にして相手をカチンとさせてしまうとはいえ、一方では他人を思いやる優しいところもあって、みたいなところに、何となく初期の御手洗の遺伝子がちょっと入っているんじゃないかなア、という気がします。実際、その推理の手法に目をやれば、現場の不可解な状況の断片をジックリと眺めつつ、それらを見事に・壓ぎ合わせて事件の全容を明らかにしていく手際の素晴らしさなど、島田御大を彷彿とさせるところにも個人的には注目、でしょうか。
「人の降る確率」は、飛び降り自殺の屍体が消失してしまうという不可能趣味溢れるネタから巧緻な犯罪構圖を描き出した逸品で、物語の中では屍体の消失に絡めて事故か他殺かといった検証もチラリとなされるのですけど、冒頭、作者はハッキリ自殺と分かるような書き方をしているところが本作のミソで、こうした語りに凝らしたさりげない技巧もまた秀逸。
「炎の行方」も物語の結構としては「人の降る確率」とほぼ同様で、不可解な放火事件に巻き込まれた探偵熊ん蜂とヒロインが二人して事件の眞相を追いかけていくという物語で、放火の現場から見つかった屍体とそのほか様々な奇妙な點に着目して、それらを最後は見事に一本の糸に繋げて犯行のストーリーを描いてみせます。このあたりの推理の手法にも、島田御大の風格を感じてしまうのは自分だけでしょうか。
個人的には、放火を遠隔操作で行うトリックを前半にシッカリと開陳しておきながら、この犯行の眼目が別のところにあるところには素直に驚いてしまいました。込み入った状況があることへの氣付きから一息に謎解きがなされていく展開も痛快です。
「仮面人称」は収録作の中では「百匹めの猿」と並ぶ異色作で、曰くつきの仮面をつけて神楽を踊っていた娘っ子が舞台の上でさア大變、という物語。「人の本性が見えるようになる」という伝説に絡めて、舞台でトンデモない状況が現出するという展開なのですけど、舞台という構図が眞相の開示によって大きく反轉する転倒ぶりが素晴らしい。
しかしこのネタには一歩間違えればマヌケといえるところに味があって、いくらこの舞台神楽に絡めた反轉ぶりが本作のキモとはいえ、実際のこの現場を舞台の外から眺めていたら完全に吹き出してしまうとは思うのですけど、物語は最後までシリアスに進みます。これまた霞センセだったら絶對にバカミスのネタとして完結するような代物ながら、ギャグやユーモアに転ばないところが柄刀ミステリの味、でしょうか。
「密室の中のジョゼフィーヌ」は、現代家屋での密室という趣向ながら、密室そのものよりも、密室をこしらえた動機に奇想が光る一作です。密室を構成する為の一要素がトンデモないものになってしまうという驚くべき着想から、事件の周辺で起こっていた様々な出來事が全て繋がるところの快感は「炎の行方」にも並ぶ見事さで、密室でありながら最大の眼目が密室の方法そのものにはないところも個人的には高評価。
「百匹めの猿」は、名探偵が勢揃いしたところで、不可能趣味溢れる犯罪の謎解きがなされるのですけど、これにタイトルにもある百匹めの猿だのシンクロニシティなどといったトンデモすれすれのネタが大量投入することによって、最後には「これって黒死館?」みたいな奇天烈な眞相開示に、詩情をきかせた幕引きが不思議な余韻を残す問題作。
「コクピット症候群」はガス殺という、らしくない殺害方法にホワイダニットを絡めた発想が見事で、推理の展開としてはガス殺しの方法に焦點を當てて進められるものの、最後にはその動機が一番のキモであったことが明らかにされるという趣向です。前面に押し出した謎を追いかける過程で、その背後に隱されていた謎が眞相を開示するという構成はこれまた自動発火装置のネタを大胆に明かしながら實は大ネタは別のところにあった「炎の行方」や、密室の方法にこだわりながらも最後にはそれ以上の奇想が明らかにされる「密室の中のジョゼフィーヌ」にも共通する見せ方だな、と感心した次第です。
時に解説で野崎氏曰く、「ifの迷宮」を取り上げて、柄刀氏の作風を「純本格の原理を追い求めるほどに社会化されたテーマに開かれていく」と評價し、「島田荘司は孤立しているわけではない。柄刀が柄刀派であるかぎり、ロマンとバロックの種は尽きないだろう」と述べているのですけど、このあと、
今のところ、この二人につながるような壮大なスケールを備えた書き手は現れていないが、出てくる可能性はある。
と、何だか島田御大の風格を継承する作家として、柄刀氏のほかにここは是非とも谺健二の名前を挙げたい自分としては、野崎氏の頭ン中では谺氏のことがスッカリ忘れられている、或いは無視されていることにちょっとガッカリ、というか、落ち込んでしまいましたよ。新作を発表せず、或いは断筆したのではないかとも思われている谺氏は本格ミステリの業界においては既に過去の人、なんですかねえ。谺氏の新作を今でも心待ちにしている自分としては悲しい限りです。