綾辻式ウメカニズム。
單行本で讀んだ時には、「七年も待たせておいてこれかいッ!」と讀後感は最惡、當にガッカリ本の典型ともいえた本作でしたが、こうして時を経て先入觀もなしに讀んでみれば、淡々そしてじわじわと物語を進めていく重厚感は「暗黒館」にも通じるものがあったりと、なかなか悪くないかなと思った次第です。
ここはどこ?今はいつ?というような例によって「囁き」シリーズを髣髴とさせるプロローグから始まり、物語は氣弱で鬱々とした主人公僕の語りで進みます。母との會話を回想しながら、そこに「——バッタが。」「——バッタの飛ぶ音が」とこれまた例によって記憶の底からの声を挿入するという「囁き」の手法を驅使しながら、じわじわと記憶の喪失と虚無感を描き出していく展開はよくいえば重厚、悪くいえば緩慢、でしょうかねえ。
白髮癡呆という特殊な病気に罹った主人公僕の母は次第に記憶を失っていき、最後には一番強く心に衝撃を受けたものだけが殘るという。母にとってその記憶とは乃ちバッタと雷の光を恐れる恐怖であり、僕はその記憶の奧底にある恐怖の源泉を探るべく、母の生まれ育った場所へと赴き、そして、……という話。
母の恐怖の記憶に絡めて、病気の遺伝を極度に恐れる主人公僕の鬱々とした樣子を描いていくところが凄い。ちょっとしたド忘れを母の病気に発病したのではと極度に恐れる主人公はそれでも決して狂氣に転ぶことはありません。この主人公の場合、狂氣というよりは病気で、要するに心の病。
鬱々としながら時折現れる狐面の人影や、子供を殺す殺人鬼の幻影に怯える主人公の執拗な描写がどうにも辛い。何というか、この主人公の鬱屈した性格が真に迫っていて、讀んでいるこちらまで気が滅入ってきてしまうんですよ。
そんななか、この鬱病確定の主人公僕を支えるのが、彼の女友達のひとりでありまして、彼女はどうにもウジウジしながら現実逃避しか考えられない彼を勵ます役回りを引き受けつつ、二人は彼女の運転するフィァット・バルケッタで、彼の母の故郷を目指します。しかしここで「肝心な時に限って故障する」というイタ車の法則が見事に発動、彼はバイクに乘り換えてひとりその場所を目指すのだが、……。
母の恐怖の記憶に植え付けられている、バッタの飛ぶ音、そして雷光の謎が、前半中盤の伏線とともに明らかにされるところはいかにも綾辻センセらしいです。しかし異界に足を踏み入れてからの、どうにも「らしくない」描写はいかがなものか。狐面という土俗的な雰圍氣はどうも綾辻ワールドらしくない、というか、そのあたりがちょっと不満といえば不満でしょうかねえ。或いは道化師が出て来たりするところからもしかしてこれはキングの「It」リスペクトかな、とか考えたりもするんですけど、實際のところどうなんでしょう。
個人的には、淡々としつつも隨所にツボを抑えた描写が光る前半の展開が好きで、例えば狐面の人影が「くつくつ」と笑うところや、白髮でやせ細った母親が「ひっ、ひいーっ」と悲鳴をあげるところなど、楳図センセリスペクトのシーンにニンマリですよ(添附図參照)。
ただホラーかっていうと微妙、ですかねえ。「殺人鬼」ほどミステリ的な仕掛けが活きている譯でもなし、記憶の意味に伏線を巡らせた手法は確かにミステリながら、寧ろ幻想小説として讀んだ方が愉しめるのではないでしょうか。怖いか、というと、確かにちょっとしたド忘れにもビクビクする主人公僕の偏執的神經質的なところは確かにかなり怖いんですけど、この怖さというのは日に日にもの忘れがひどくなる中年の自分だからこその怖さであって(鬱)、この物語が孕んでいる恐怖とはちょっと違うと思うんですよねえ。
狐面の影に「いまは、いつでもないとき」と禅問答みたいなことを口にされても何だかな、と思ってしまう譯です。寧ろ最後に母親の恐怖の記憶の眞相が明かされたあとの、僕の絶望感、そして眞相を知ってしまった主人公を突き放すようにして終わる鬼畜な幕引きに、綾辻センセのダークサイドをかいま見たような氣がしますよ。清々しいほどに突き拔けたグロで押しまくる「殺人鬼」とはいうなれば対極にあるような作風といえるのではないでしょうか。実際この鬱々とした雰圍氣は尋常ではありません。
當事は仰々しい展開もなく、物語は重厚でありつつも淡々としていて、派手な仕掛けもない、というないないずくしで不満ばかりを感じてしまった本作ですが、「暗黒館」が世に出た今になって讀み返してみれば、本作はいうなれば「暗黒館」を生み出すのに必要な通過點だったのではないか、と思ったりします。
過度な期待は禁物ですが、綾辻センセの作品中、この暗鬱な雰圍氣はある意味極北。構築美も何もありませんが、明かりの見えない闇をなかをさまようような不安感が全體を占めているあたり、作者のまた違った一面を堪能出來る幻想小説といえるでしょう。ジャケ裏には「ホラーの恐怖と本格ミステリの驚き」なんて書いてありますけど、ゆめゆめ騙されないように。
ところで、口數も少なく、鬱々ボソボソと話をしながら、姉御肌の女性に引っ張られるという主人公に何処となく綾辻センセの姿を見てしまうのは自分だけでしょうかねえ。