鮎川賞受賞第一作。處女作の「ヴェサリウスの柩」では、前後半の風格の乖離の激しさに賛否両論――というか、後半の展開に關しては何だか殆どが「否」の意見ばかりだったような気がするのですけども、個人的には後半のキワモノミステリ的なノリは結構氣に入っていて、さらには事件の核心に絶倫のオットセイが隱れていた、みたいなニヤニヤしてしまう眞相(意味不明。でも讀めば分かります)もツボだったりしたので、これはもしかしたら同じ鮎川賞の先輩、岸田女史のキワモノと本格の華麗な融合の風格を継承する新人作家の誕生カモ、なんてかんじで期待して本作を手にとってみたのですけど、――結論からいうと、本格というよりは上質のミステリとして堪能しました。この意味については後述します。
物語は義足のカルトダンサーが「赤い靴」の見立てで、もう片方の足も切断された死体で発見されるところから始まり、その後も犯人とおぼしき人物は金木犀の香りをムンムンさせながら脚フェチっぽい誘拐事件を強行、さらには第二のコロシが発生して、――という話。
義肢装具士とそのユーザが登場人物の殆どをしめ、さらには第一のコロシの被害者が義足のカルトダンサーというところから非常に特殊な世界を描いた物語かと思ってしまうのですけど、登場人物たちの造詣はごくごくノーマルで、事件から調査へと展開される過程でも「ヴェサリウス」のような暴走はなく、物語は淡々と進みます。
ややくどいくらいに登場人物たちの逸話が語られていくところが本作の風格でもありまして、義足を使うに到ったユーザたちの経験から義肢装具士たちの生活なども含めてその背景をじっくりと書き込んでいるところは、本格ミステリというよりは普通小説の雰囲気が濃厚です。
事件が発生してから義肢装具士たちが、被害者は自分たちの会社の義肢のユーザでなおかつカルトで知名度もある人だし、こりゃアじっとしといられないッとばかりに調査を開始するものの、あくまで狭い人間關係から動機や事件の背景を憶測して犯人像を炙り出していく前半部にはやや違和感もアリとはいえ、実際に近親者が誘拐事件に卷きこまれてからの中盤以降の展開の中へ緻密な伏線を凝らしていく仕掛けは秀逸です。
調査はアッサリながら、後半の推理は非常に實直で、特に二段重ねのロジックで真犯人を明らかにしていく趣向は興味深く、本作の大きな讀み所だと思います。その一方、探偵はこの推理においても事件の犯人を指し示すことは出來ても、真の動機については探り當てることが出來ません。つまり探偵はロジックによっては全ての眞相を喝破できず、その後、犯人の手記によって事件の動機も含めて全ての眞相が語られていく、――という結構です。
作者の麻見氏は「ここだけのあとがき」の中で、
人間ドラマを描き込むと謎解きの切れ味が鈍くなる、トリックで無茶をすると人間ドラマが嘘っぽくなる。そんな難しさはありましたが、新しいタイプの「義肢をめぐるミステリー」が出来上がりました。
と書いているのですけど、「謎解きの切れ味」によって人間ドラマを描き出すことこそが本格ミステリの眞骨頂であると考える自分には、上の麻見氏の意見はある種の「迷い」に見えてしまうし、本格ミステリとしての「謎解き」や「トリック」と「人間ドラマ」を「バランス」として考えているといずれは行き詰まってしまうのではないかなア、などと余計な心配をしてしまいます。
「謎解き」や「トリック」といった仕掛けによって人間ドラマを現出させる技法こそが本格ミステリの魅力でもあって、例えばそれは現代本格では道尾ミステリを讀めばそのあざといまでの技法によって人間ドラマを描き出す風格は、そうした方向性での大きな指標にもなり得ると思うし、あるいは土屋、連城、泡坂といった作品にもそうした技法の巧みさは十二分に感じられると思うのですが如何でしょう。
一方、本作では、上にも述べた通り、事件の深い眞相は探偵の推理によって明らかにされず、事件の構図をこのようなかたちに爲し得た人間たちの「思い」は犯人の手記によって一氣に明らかにされます。つまり、本作において本格ミステリとしての仕掛けが明らかにするものはあくまで事件の構図の「かたち」だけであり、その構図がこのような「かたち」に到るまでの「ドラマ」は言うなればエピソードのひとつとして語られていくに過ぎません。したがって、確かに犯人の告白によって明らかにされる事件の「眞相」に驚きはあるものの、それは本格ミステリの仕掛けによる強度を伴ったものというよりは、多分に普通小説的な逸話の積み重ねに依存するものであるゆえ、そのあたりが自分として不滿といえば不滿、――とはいえ、この犯人の告白によってイッキに語られる「眞相」とそこから立ち上る悲哀の物語が一級品の風格を持っているところはシッカリと書き留めておくべきだと思います。
特にこの事件を「演出」した人物の「思い」は相当に強烈で、この「思い」を眞相開示のシーンで盛り上げるための伏線もまた盤石。この人物の告白によって、始めて事件の異樣な見立ての眞相が明らかにされるとともに、そのもの哀しい「思い」には、ある人物の台詞の中にある「物真似」という言葉が大きな伏線となっているところなど、事件の謎解きの外においても、人間ドラマをこうした技巧を活かした描写によって明らかにしていくところは本作の大きな魅力だと思います。
また、探偵の推理から離れたところで、二つの殺人の眞相が犯人の告白によって語られるところにも顛倒めいた構図があり、こうした無念と無情が最後のエピローグにおける詩情を支えているところも秀逸です。またそれを社会派的な視點から「弱者」という存在が結果的に事件の引き金となっていたという苦い眞相へと収斂させていく手さばきも素晴らしい。
――という譯で、何だかんだ文句をブチまけつつも、最後の犯人の告白によって明らかにされる事件の構図と眞相を堪能してしまったのですけども、人間ドラマなぞ知ったこっちゃねエ、本格ミステリはトリックがすべて、と考える原理主義的な視點からの「讀み」では本作にどのような感想を持たれるのか、興味のあるところです。
上にもチラっと書いた通り、人間ドラマと本格の「謎解き」や「トリック」の「バランス」に悩む麻見氏には、何處かピントがズレているんじゃないかなア、……なんてボンクラの自分は感じてしまうのですけど、氏が抱えているこうした煩悶は将来の傑作へと繋がっていくものだと思うし、いずれや大化けするであろう萌芽も本作には充分に感じられます。「ヴェサリウスの柩」のようなキワモノ・スリラー的な風格は薄味ながら、この悲哀溢れる眞相と事件の構図は本格ミステリという枠組みがあるからこそ活写できるものだと思います。
そういえばググっていて氣がついたのですけど、麻見氏はブログもお持ちの樣子。ここでも、
本来悩まなくていいであろう部分で、いろいろ悩んでしまったのかもしれません。このへん、まだまだ未熟というか、バランス感覚が乏しいというか……修行不足です。
なんて書いていますけど、上にも書いた通り、これからの「修行」によってそうした「バランス感覚」の呪縛から解き放たれた氏の次作に大期待してしまうのでありました。
[10/06/08: 追記]
昨日再讀してみて、ちょっと印象が變わりました。上では第一の殺人の見立ての眞相が探偵の推理によって明らかにされないところをやや不滿に感じた、みたいな感想を書いたのですけど、寧ろこの第一の殺人の被害者であるダンサーの視點からこの事件の構図を眺めていくと、探偵「さえ」もが眞相を見拔くことが出來なかったという結構が、被害者の悲哀をより高めているような氣がしてきました。
つまり事件のフーダニットを指摘出來ても、結局は件の見立ての真意を見拔くことが出來ず、それゆえにこの事件に隠されたある人物の強烈な思い――その心の奧底には探偵の推理さえも届くことが出來なかったという、いわば「やぶれさる探偵」ともいえるこの趣向によって眞相が描かているからこそ、犯人の告白の中で語られるカリスマ・ダンサーと犯人との哀しき關係やこの事件の結末が孕む非情がより讀者の胸を打つ譯で、事件の構図と眞相を知った後に再び、探偵の視点からは決して見えてこない犯人と被害者の内心を探りながら讀み進めていくとまた違った感想を持てるような氣がします。
その意味でも本作の事件の構図とこの眞相に描かれるべきドラマは非常に豊饒なものであり、作者である麻見氏の「バランス」に配慮した物語の組み立て方は充分な成果を上げていると思います。という譯で、また文庫化された時に再讀する必要がありそうです。