確かに「透明女」や「赤い暈」など後の大長編に比較すればおとなしい風格とはいえ、異常心理をフックにした大胆なミスディレクションなど「猟人日記」にも痛じる仕掛けは堂々たるもので、昔讀んだきりスッカリ内容も忘れていたものの再讀でも十分に愉しむことが出來ました。
物語の主人公は洋裁学校の講師であるマダムで、旦那に尻を犯された後は何故か夜の営みもナシ。そのことを不審に思っていると旦那失踪――というところから失踪旦那には学院の生徒である娘っ子との不倫疑惑が浮上、さらにはその娘っ子の不可解な死に旦那の同性愛疑惑も絡んできて……という話。
マダムと一緒に失踪した旦那の行方を追いかける男がいかにも怪しく振る舞っているところなど、シンプルでありながら周到なミスディレクションを支えているのが、戸川ワールドならではの、皆が皆どこか変態っぽくてヘンなカンジという登場人物たちでありまして、本作でもそのあたりの構成は見事です。
失踪旦那の行方を追っていく展開を大きな縦軸に据えて、その失踪の「理由」に性転換という奇矯なネタを絡めているところが誤導の技法として絶妙な効果を上げているのは勿論なのですけど、もし同性愛だとすればどうにも生徒との不倫には合点がいかない譯で、そうした人間心理の不可解に「違和」を添えて、推理の課程ではそれらが見事な伏線へと転じる構成も素晴らしい。
特に本作では、後半、舞台を日本からヨーロッパまで飛ばしていることで、性転換した旦那の行方を追いかけた暁に、マダムが旦那の生存を確信するとあるものが見事な小道具として活かされているところは關心至極、シンプルなトリックを縦軸の展開にうまく絡めているところなど、キワモノスリラーの外観ながら本格の技法を駆使しているところも好印象。
しかしこの事件の構図はかなり悲壮感溢れるものでありまして、眞相が明らかにされても誰もハッピーになれていないというダウナーな幕引きです。特に性転換した旦那の行方を追いかけていく課程で、実はアレだったというところが明らかにされるところ(242頁の「実子の上に、ふいに疲労感がおおいかぶさった」から後の描写)は、さらりと書き流していつつも人生の無常と悲壮を感じさせます。
また、奇妙に思われた旦那の不倫疑惑に關しても、犯人が仕掛けた誤導に見せかけつつ、これがとある人物の複雑な心の綾そのものにほかならず、こうした心の惑いがすべての悲劇を引き起こしたきっかけであったことが明らかにされるとともに、事件の構図のなかでは「探偵」のみならず「犯人」もがその外周に据えられていたに過ぎなかったという痛烈な眞相――さらには「現実」よりも「不在」と「幻想」の方がより強い磁力を発揮して事件を組み上げていたことが明らかにされる上の描写が印象に残ります。
中盤でこの事件に大きく絡んでくる、ナニを切り取ってはホルマリン漬けにコレクションしていた変態君は相當に強烈なキャラながら、個人的にはこのキ印に施されていた操りの仕掛けがかなり怖く、戸川女史は軽いエピソードでこのあたりをまたまた書き流してしまっているのですけども、これだけでもゆうに長編に出來そうなお話なのに何だか勿体ないような気がしましたよ。
キワモノミステリとしての強度は本作以後の作品に比較すればまだおとなしいとはいえ、その一方で「猟人日記」や「火の接吻」のようなノーマルぶりは、現代におけるフツーの本格讀みでも十分に愉しめるのではないでしょう。復刊を期待したいと思います。