追悼、西村寿行。
昨日の朝に訃報を聞いてからというもの何だか茫然自失の状態なんですけども、今朝、代表作にして歴史的傑作の一編「犬笛」を再讀して少しばかり気を取り直した次第です。
本作も徳間文庫も含めて學生時代から何度讀んだか知れない作品ながら、やはり再讀するたびに違った感動や感慨があるもので、主人公秋津と鉄の活躍と放浪を軸に据えたハードロマンとしての讀みが基本ながら、後半の展開などはミステリとしての愉しみ方もアリという素晴らしさで、當に名作と呼ぶに相應しい作品でしょう。
まずもってゴシック文字で綴られた、少女と犬との不可思議なシーンが印象的で、このプロローグだけで作中においては重要な役割を果たすことになるゴールトン・ホイッスルなるアイテムと、常人とは違った聴覚を持つ少女というキャラ紹介がハッキリと讀者に印象づけられるという書き方は流石です。ここに寿行ハードロマンでは定番の国際問題やワルの暗躍も絡めて、フツーのサラリーマンが事件に卷き込まれたのをきっかけに「男」へと覚醒する物語が展開されていきます。
殺人現場を目撃したと思しき少女がワルの組織に誘拐され、それを愛犬をともに追いかけていくというベタな結構ながら、この少女が常人とはかけ離れた聽力を持っていて、犬笛の音を聞き分けられるというところが本作最大のキモ。
少女の父はこの犬笛を吹きながら、愛犬とともに日本を驅け回る譯ですけど、ワルの組織の奸計に嵌るや追跡劇が逃亡劇へと轉じる展開も期待通りであれば、主人公が危機に陥ったところで必ず市井のイイ人に出會って窮地を脱するというエピソードの添え方も見事です。
初期作ゆえにエロ風味は薄めながら、娘を誘拐されてしまった妻が發狂して精神病院に入院、擧げ句に担当医に色目を使うようなインフォ女になってしまうという痛烈な逸話も添えて、後半にはワルの組織を裏切ったばかりに輪姦されてしまう美人女醫の圖、という寿行ワールドではこれまた定番の展開もシッカリ用意されていますのでご心配なく。
ただやはり本作ではエロよりも主人公である父親の娘を思う気持ちと、彼が次第に「男」へと覚醒していく過程を堪能するべきで、この主人公の視點に寄り添うかたちで、これまた組織でははみだし者扱いされている外事警察の男の活躍を描いているところもまた澁く、これが後半ひとつになって敵方の組織に立ち向かっていくという結構が寿行ファンには堪りません。
この外事警察と一丸となってワルの組織を追いつめていく後半では、敵方が陽動作戦を行って主人公達の目を欺くという展開もあり、娘が身につけていた犬笛というアイテムから敵方の逃走先を推理していくところが「血わき肉おどる」「手に汗にぎる」「息もつかせぬ」という安易な「常套標語」一邊倒の作品ではないところをさりげなく主張しているところにも注目で、何故この犬笛が落ちていたのか、また落としていった人物は誰なのかという意味が、推理の過程でいくつかの反轉を見せた最後、その眞相が明らかにされるところは讀者の胸に迫ります。
ハードロマンっていやア、ただ主人公とワルが逃げまわってりゃあ沒問題で、そこに毆り合いのガジェットを添えれば一丁上がり、なんてことは初期の寿行ワールドではありえない譯で、少なくとも本作ではこのあたりに推理の冴えをシッカリと見せてくれるところは今讀んでも新鮮です。
寧ろ主人公の男節で中盤までを押し切っておきながら、後半、いよいよ犯人を追いつめていくところでは、ワル野郎の陽動作戰や細やかな推理によって人間心理を描いてみせたりと、ハードロマン的視點で見れば物語の失速とも取られかねない要素を添えているところはかなり意外。
それとこの角川版の卷末に掲載されている郷原氏の解説では、
文学に限らず、およそ表現というものが形式的に純化され、記述的に洗練されるのは避けられないことであり、もし絶対的な傑作というものがあるとすれば、それはこうした純化と洗練の極北にしか生まれてこないはずである。また專門的な職能としての作家が社会的に好遇されるのはきわめて当然のことであり、小説が基本的に想像力の産物であるかぎり、大衆でなければ大衆小説が書けないというものでもない。ただ、一方で小説が作者の社会意識の産物であるということもまた動かせない事実であって、大衆の肉体を失った名士作家には「名士の文学」しか書けないことは、最近の小手先だけの「社会派推理」や、横町のご隱居の繰り言じみた「問題提起小説」が実証している。
とあって、本格ミステリよりはエンタメ、ハードボイルド、冒険小説の方により近いところでも「社会派推理」のアレっぷりはかなり嫌われていたことが分かります。結局、「社会派推理」といっても、清張の劣化であれば受け入れられないのは当然で、それは本格ミステリが黄金期の劣化であればマニアどころか普通の本讀みからも拒否反応を持たれてしまうというのと同様でしょう。
という譯で、格別、社会派vs本格という対立軸で当時の空氣を讀み解かなくとも、そもそもダメダメな社会派推理がそれ以外のエンタメから飽きられて嫌われていたのが所謂清張呪縛の眞相だったのカモ、なんてことを考えてしまいましたよ。
「犬笛」のほかにも「無頼船」とか鯱シリーズとここで取り上げていない傑作もまだもまだ多く、そのハードロマンの風格と、人妻のジーパン姿に後背位、さらにはお尻様男根様のエロっぽさにグフグフと忍び笑いを洩らしながら氏の小説を貪り讀んでいた昔を回顧しつつ、ここ暫くは本格ミステリと併行して寿行氏の作品を讀み返していこうと思います。