理系的敍情性。
「雪女」「人喰い病」という傑作短篇がお氣に入りの石黒氏の新作、といってもリリースされたのは六月で全然旬ではないんですけど、ようやく讀みました。収録作は「雪女」系の話としては醜男の奇人が戦中の北海道で不思議草の研究に没頭する「冬至草」、娘の難病治療にド素人が着手、奇跡的な治療法を見つけるに至る「希望ホヤ」、奇妙な人魂幻視を描いた「デ・ムーア事件」。
また「蜂」系のちょっとシュールな不思議話としては、狐憑きならぬ月憑きの男の一人語りに惚けたユーモアと不条理が素晴らしい味を出している「月が……」、その他、個人の恨み節も交えてトンデモのペテン師をネチっこく描いた「アブサルディ事件」、作者の作品としては新機軸ともいえる「目をとじるまでの短い間」の全六編。
冒頭を飾る「希望ホヤ」は、「人食い病」から作者の作品を知っているファンも安心して讀める風格で、難病に罹った娘をどうにか直してやると奮起した弁護士がド素人ながら醫學書を讀み漁り、本職のプロからは馬鹿にされつつ最後には治療法の鍵となるあるものを見つけるに到り、……という話。
レアもののホヤを娘に食べさせ、ついに病気は治癒、しかし娘の病気を治す為に大量捕獲した結果そのホヤを絶滅させてしまった男は學會の連中からは非難囂々。しかしよくよく考えてみればそんな男の必死ぶりをド素人の戲言と嗤っていたのは當に彼らな譯で、この皮肉なオチのつけかたがいかにも作者らしい好編でしょう。
「冬至草」もレアものの「冬至草」をネタにして物語を展開させているところは「希望ホヤ」と同樣乍ら、その研究に没頭していく男の半生によりスポットを當てているところがいい。この研究者というのが生まれも定かではない醜男のアウトサイダー。そして孤児院で育った彼がやがて嚴寒の北海道で研究に没頭していく姿は當に壯絶。
ここに大戰の時代背景も絡めて、歴史から隔絶されたアウトサイダーの半生が、後半に進むつれて男の助手であった人物の出自や原爆実験といった時代との交わりを見せていくところも秀逸で、そこへさらに元助手の老人を訪ねていく語り手の言葉を介して過去の回想が行われる構成が物語に陰影を添えているところも素晴らしい。収録作の中ではやはりこの作品が一番好きですかねえ。
作者のユーモラスな一面をかいま見せてくれるのが「月が……」で、天体望遠鏡で月を覗いていた語り手は輕い身震いを覚え、その場で尻餅をついてしまう。それからは右手に月が見えるようになってしまったという狐憑きならぬ月憑きとなってしまった彼は、知人にそのことを相談したり、病院を訪ねていったりするものの成果はなし。
自分にしか見えない月をただの幻覚かと思うものの、公園で軍國ボケ老人から「ほお、つきですな」なんて声をかけられたことに超吃驚。キ印にだけには自分の月が見えるということに複雜な思いを抱いてしまう主人公だったが、……。
大きな展開こそないんですけど、このボケ老人と、老人の妄想ワールドに付き合っている付き添いの女性の會話が個人的にはツボで、語り手に向かって「ただいまほりょをれんこうしてまいりました」なんて突然声をかけてきた老人に對して「もう就寝ラッパよ、アライさん」とたしなめたり、妄想ばかりを喋り散らしているところへ「そんな嘘ばっかりいっていると軍法会議よ」などと返しているところに思わず吹き出してしまいましたよ。
「アブサルディに関する評伝」は短い乍ら、「希望ホヤ」にも感じられた學會の権威主義を斜めに眺める視線がより明確に感じられる好編で、そこに語り手のネチネチしたイヤっぷりをさりげなく添えているところが個人的にはツボ。
物語はアプサルディなる男と研究をともにしている語り手が、彼の実驗のインチキ振りを發見、シッカリと教授にチクってみせると、教授はお前の主張が正しいという証拠を見せろと期限付きで彼に再実驗を勸告。自信満々に答えるアプサルディだったがしかしもともとがインチキだった実驗をいくら繰り返してみても成果など望める筈もなく、それでもシャアシャアと自分の誤りを認めずに詭辨をまくしたてる彼に對して語り手は「でも君は失敗しているよね」とバッサリ。
それでも論點を逸らしまくって戲れ言を繰り返すアプサルディは相當に痛いキャラではあるんですけど、そのペテン振りが暴露されて彼が研究室を去ってから學會は妙なことになって、……。
「目をとじるまでの短い時間」は作者の新基軸ともいえる作品で、収録作の中では一番普通小説らしい風格ゆえ、前からのファンには好き嫌いが大きく分かれるかもしれません。DVとかの今日的な話題を添えたり、チェルノブイリへの言及があったりするところにどうにもあざとさを感じてしまって、正直自分は雰圍氣にノることは出來なかったんですけど、絶望世界の中から立ち上る情景の美しさには思わずはっとさせられるところも多く、純文學系の人にはこのあたり、かなりツボなんでしゃないかなあ、と感じた次第です。
ちょっと氣になったのは、作者があとがきで触れている「それにしても改めて自分の作品を読みかえして気づくのは、子供が作品のモチーフになっていることの多さだ」というところで、「希望ホヤ」や「目をとじるまでの短い時間」では確かに子供が物語の重心を占めていたように感じられたものの、収録作すべてを讀みとおしたあと思い返しみても、格別子供が作品の大きなモチーフになっていたという讀後感が自分の中に残っていないところでありまして。
石黒氏の作品の持ち味は、物語を語ろうとせずただ單に虚構のものを記述するところから圖らずも物語の叙情性が立ち上ってくるところなんじゃないかなア、と自分などは感じているので、何がモチーフであろうと個人的にはあんまり關係ないのかもしれません(爆)。
ジャケ帶にある理系小説というのがどういうものかよく分かっていないんですけど、「人喰い病」や「新化」が好きな方はきっと氣に入ると思います。また本作の収録作が果たして帶にある通りの「完成系」であるかどうかについてですけど、自分の意見は當分保留、でしょうか。「冬至草」に見られる語りの重奏や、「アプサルディ」に見られる語り手と語られるものとの關係性など、まだまだこの作風には大きな可能性と變容の余地が残されていると思うし、もっと素晴らしい傑作が今後も出てくるのではないかな、などと期待してしまうのでありました。