昨日取り上げた竹本健治は現実世界からのずれを巧みに表現できる希有な作家だと思っているのですが、この點に関してはSF、ミステリ作家としての山田正紀もなかなかのものだと思います。以前取り上げた「サイコトパス」そして自分もお氣に入りの「エイダ」といった物語の源流が本作にはあるのではないかなと勝手に考えています。また日本人や歴史といった壯大なテーマと謎を現実の搖らぎの物語に昇華させてしまう手法は大作「ミステリ・オペラ」にも見られると思うのですがどうでしょう。
しかしこの傑作、絶版になっているんですねえ。アマゾンで見ても、單行本文庫本ともに品切れのようで。とりあえず物語の抜粋をアマゾンのサイトから引用すると、
日本人に特異的な右脳と左脳の機能差研究から、無中枢コンピュータを構想する大学助手。彼が父の遺品に石川啄木の未発表小説を発見したとき、我々の脳に刻印されていた禁忌の謎が次第に明らかに…。日本人の”正体”に気づいてしまった啄木の、そして彼の運命は。
これだけ讀むとどうにもSFっぽい話に思えるんですけど、自分は恐怖小説として讀みました。だって本當に怖いんですよ。どうも自分は意識の崩壞や自身の肉体が変容していくという話に弱いみたいでして。
以前「サイコトパス」を取り上げた時には2004年度版「幻象機械」という言葉でその物語の概要を傳えてみたのですが、再讀してみて、「サイコトパス」の方が本作と比較して、狂氣がより際だっているという印象を受けました。「サイコトパス」が完全に壞れてしまった人間を取り上げているのに対して、こちらは人間が壞れていく過程をしずしずと、或いはネチネチと描いているというか、そこから立ち上るイヤ感が強烈です。牧野修が現実世界の崩壞を幻想繪畫的な手法で描いているとしたら、山田正紀は心象風景風に仕上げているというか。とにかく人間の意識が内部から壞れていくさまが非常に上手く描かれていて、それが怖い。意識が壞れていくことがそのまま現実世界の崩壞と対照されているところが恐ろしく、石川啄木の不氣味な歌と相まって、何かモノクロームの古い映畫を見ているような感覺です。
しかし作者の手による石川啄木の贋作「父の杖」は見事のひとことで、本作に通奏低音のように流れている靜かな狂氣を見事に表現しています。そして章のあいだに挿入される啄木の歌がまた強烈。自分は詳しくないんですが、啄木って本當にこんな強烈な歌をうたっていたんですかねえ。夢野久作の獵奇歌も眞っ青のものばかりなんですけど。
物みなに皆ことごとく一つづつ眼ありて我をつくづくとみる
かく弱きわれを活かさず殺さざる姿もみせぬ殘忍の敵