あの「上帝禁區」の作者である冷言氏の第二長編。「上帝禁區」と同様、横溝ミステリ的な背景に綾辻新本格の直系ともいえる語りの技巧をふんだんに凝らして作品で、堪能しました。
物語は、日本人にも観光地として名高い九分金瓜石にある「鎧甲舘」で発生した殺人事件、――と書いてしまえばごくごくシンプルなコード型本格かと錯覚してしまうのですけど、「上帝禁區」であれだけの仕掛けを凝らした冷言氏の作品のこと、本作も、一筋繩でいくようなお話ではありません。
本作の構成は大きく四部からなり、それぞれに語り手の異なる小説めいた「手記」を配し、それを珈琲店に集まった事件の当事者たちが読む、――というもので、過去と現在を交錯させた語りの中に「手記」と「読み手」に向けられた巧妙な仕掛けが隠されているところが素晴らしい。
事件の構図そのものに目をやれば、学生時代に件の曰くありげな舘を訪れることになった若者たちが、遺産相続の絡んだ殺人事件に巻きこまれる、……という、いかにもコード型本格の定型を擬態したものながら、実際の仕掛けと「騙り」の対象が読者とは別のところに向けられているという趣向です。
一読すると、ある読み手に向けられた「騙り」の仕掛けは、「鎧甲舘事件」と名付けられた二十年ごしの連続殺人事件の構図からは遊離しているように感じられるものの、この語られる事件と、或る人物の「純愛」の物語との位置関係が、事件の真相開示とともに、舘に隠されていた秘密と見事に重ねられるという外連も、本作の大きな見所でしょう。
実際、この第三部「密室 二〇〇六年 秋」に用いられた趣向は、日本の本格ではもはや定番ともいえるもので、今年読んだ作品の中でも自分の知っている限り、少なくとも二作は作品の全体を支える大きな仕掛けとしてこの技巧を用いていました。しかし本作が異色なのは、この仕掛けを敢えて最後に読者を騙すための驚きの装置として用いることは避けて、小説を擬態した手記という形式から「書き手」と「読み手」との隠された關係を明らかにするためのフックにしているところでしょう。
したがってこの仕掛けの存在は続く間奏曲の冒頭であっさりと明かされてしまうのですが、本作の優れているところは、この仕掛けの存在を「読み手」に明かすことで、上に述べたような隠された関係を「読み手」に氣づかせるための伏線へと転化されているところてありまして、この仕掛けは同時に、コード型本格を擬態した事件の構図にある人物の純愛の物語が隠されていることを暗示しています。
二十年前の過去の事件と現在の事件は、「遺産相続を巡る陰惨な連続殺人事件」という横溝ミステリ的なコード型本格の外観にとらわれている限り、決して解き明かすことはできません。「鎧甲舘」の内部からは決して見ることできない「あるもの」が巧妙に隠されており、この仕掛けは舘の構造はもとより、この舘の住人たちの心の内部に凝らされていて、表層上に見えているものと隠されたものとの「位置関係」を把握することではじめて、事件の眞相と真犯人に迫ることができるという構図の組み立ては「上帝禁區」以上に徹底しています。
二つの事件のトリックを成立させる「鎧甲舘」の構造というミクロと、コード型本格の外観と純愛の物語というマクロの關係性は見事に重ねられ、探偵の推理によって二つの不可能犯罪を支えるトリックが明かされることで、二十年の時を隔ててある人物の純愛が完成されるという幕引きも素晴らしい。
この作品は「玻璃の家」と同様、相貌失認が取り上げられているのですが、これを用いた推理の見せ方に外連を持たせた「玻璃の家」に比較すると、本作における相貌失認は事件の構図よりもむしろ、時間を超えて描かれる純愛の物語を際だたせるための趣向として機能しています。
作品が刊行された当時は「人の顔が判らないなんてありえねージャン」なんて批判も散見されたのですけど、こうした感想持たれた方は、その「ありえない」ことが「あった」からこそ、この人物は失った愛を取り戻すために二十年近くの歳月をかけたのだという「必然」を読み落としているような気がするのですが、いかがでしょう。
まあ、事件とトリックのネタバレにはならないだろうから、もうちょっと踏み込んでこのあたりを語ると、……貌に傷を負った彼女と、相貌失認となった彼が再会したときのシーンを思い起こしてみれば、彼がこのときに彼女の貌を認められたなかったという悔恨が、この後の物語を支えていることにも気がつくのではないでしょうか。
さらにいえば、この再会の悔恨は果たして彼女の心にはどのように映ったのか。貌に傷を負った彼女にとって、相貌失認の彼が自分の貌を認めることができなかったという事実を、「そのとき」の彼女はどう感じたのか。それは彼女にとって幸せなことだったのか、それとも……。また、その後、彼が相貌失認だと知った「その後」の彼女の心の変遷とその行為の意味までをじっくりと讀み解いていくとすれば、「そんなことあるわけねージャン」なんて一言でこの部分をあっさりと済ませることは決して出来ないわけで……ってこのあたりは本格ミステリとしての技巧を分析するというよりは、完全に小説そのものの「読み」になってしまっているような気がするので、これくらいにしておきますが、とにかく事件の構図を隱蔽するために設えられた本作の「純愛」をこれくらい深読みしていかないと、事件の構図の中に描かれた真犯人の動機の深い部分を理解できないような気がします。
「純愛」と事件の構図を重ねるとともに、構図そのものを隠すための仕掛けとして機能している語りの技巧、さらには「小説」の形式を模倣した手記の結構など、コード型本格を擬態して巧妙な騙りの仕掛けを凝らした風格は、まさに冷言氏ならではの際だった個性といっていいでしょう。
事件そのものの派手さは「上帝禁區」の方が上ですが、小説的技巧と語りの巧みさではこちらの方が遥かに洗練されていると思います。島崎御大の解説つきという、いうなれば御大のお墨付きという本作、綾辻新本格の風格を起点に、現代本格の技法をふんだんに凝らしたまさに新本格の進化系という意味でも、台湾ミステリを代表する一冊といえるのではないでしょうか。