傑作。ただ「エコール・ド・パリ殺人事件 レザルティスト・モウディ」のように「謎が解けた瞬間」にハッとするような構図が現出する構造をおそらくは意図的に避けているがため、この作品の副題に込められた主題と重ねて「事件の謎解きの後に」語られる「あるもの」の真意に気がつかない人は単なる凡作と感じてしまうやもしれません。そういう意味で、今回の深水氏はかなり冒険したなア、と。まあ、このあたりは後述します。ただ、グタグタ書いたため、今回のエントリはかなり長いです。
物語はランスの大聖堂でとある男が転落死を遂げ、そのあとまたもや浮浪者の不審死が発生。被害者は二人とも死の直前にシャガールのステンドグラスを見ていたという。転落死については犯人が現場から立ち去ることは絶対に不可能。この事件に立ち会うことになった芸術マニアの探偵・瞬一郎の推理はいかに、――という話。
瞬一郎の手になる手記は漢字にルビがふられており、人によってはそれだけでもう、拒絶反応を引き起こしてしまうかもしれないというものながら、個人的にはここ、最近中国語ばっかり読んでいたのでこのあたりはノープロブレム。また実際のところ、講談社ノベルズのファンでありかつ本格マニアであれば、同時にリリーされたまほろタンの「天帝」シリーズのファンであるにも違いなく、「ルビなんてちょろいちょろい」という方が殆どではないかと。
もっともそうした講談社ノベルズのファンという特殊な読者は別にして、このルビ地獄にもある仕掛けがあったりするのですが、まあ、そうした趣向は瞬一郎の余興だと思って軽く流して讀み進めていくと、後半になってイキナリ二つのうちのひとつの事件においてはアッサリと犯人が明かされてしまいます。
もちろんここで驚いたのは読者のみならず海埜刑事も同様で、犯人はすでに判っているためここからはハウダニットの真相開示へと流れていくわけですが、正直、このコロシについてはまったく判りませんでした。しかしこの犯人の挙動や描写に鏤められた様々な伏線を瞬一郎が口にするにつれ納得することしきりで、さらにはこのトリックから日本の大仏にまで話が到る衒学の趣向も微笑ましく、なかなか愉しむことができました。
しかしこちらの事件については物語の中ではそれほど大きくクローズアップされることなく、不可能犯罪興味として読者の関心を惹きつけるのはやはり件の転落死の方でしょう。この現場を目撃していた人物が見たというあるものや、ある人物が使っていたあるものからコイツが犯人だろ、というアタリは自分のようなボンクラでも容易に気がつくことができるレベルではあるものの、それらを実際に完成させるためにはではどうすれば良いか、という細部に関しては難易度も高く、すべてを自力で解き明かすことは出來ませんでした。
まあ、この派手さと犯人の心意気は御大直系とでもいうべき本格趣味溢れるものながら、実をいえばこうしたトリックも古典から現代本格を読み慣れたマニアにしてみれば「まあ、よくできてるねー」というくらいの感想しか思い浮かばず、「ゲラゲラ。『エコパリ』とか『トスカ』に比べると劣化してね?」なんて感じで、トリックに注力した分析を行う本格マニアほど本作に対しては凡作という感想を抱いてしまうカモしれません。
しかしこれこそがイジワル作家、深水氏の本領でもあるわけで、「エコパリ」の、論考と事件を見事に重ねた緻密な構図や、オペラの趣向を細部にまで鏤めて人間ドラマを描き出す大胆な構図を組み上げてみせた「トスカ」の作家が一讀しただけで誰もが凡作という印象を持ってしまうような作品を書くわけがありません。
深水氏の作風に関してよく耳にするのが「芸術ミステリ」というような言い方で、芸術と本格ミステリとしてのトリックを巧みに融合させた作風が深水ミステリのウリ、みたいなかんじになっています。しかしこれは処女作である「ウルチモ」の時から感じていたことなのですが、深水ミステリの深奥はその伏線の技巧と何よりも事件の構図の構築とその技法にあるわけで、現代本格としての、主題と事件の構図がどのようなかたちで連關され、また活かされているのかまでを讀み解いていかないと、その作品の素晴らしさは見えてこないような気がするのですが、いかがでしょう。
「エコパリ」は芸術論と事件の構図が重なり合うという、ある意味非常に複雑でいながら真相開示の時点で読者が非常に明快なかたちでカタルシスを感じる傑作でした。それに続く「トスカ」では、オペラ「論」とでもいうべき衒学は物語の細部に鏤められ、最後に現出する事件の構図はその細やかさゆえ、一讀しただけでは「エコパリ」のように明瞭なかたちでその趣向を読み取ることができなかった読者もいたのではないでしょうか、――というか、自分もその一人だったわけですが。
では、最新作となる本作ではどうなのか、というところなのですが、本作で扱われる二つの事件は非常に単純で、またそのトリックもある意味大変に明快です。またそれゆえに本格マニア的視点からは「そのトリックと推理と真相」から「凡作」ということになってしまうかもしれません。
しかし、上にも述べた通り、イジワル作家深水氏の作品においては、その作品のテーマに注力して事件の構図を讀み解くと、その美味しさは二倍三倍にもなるということは忘れてはいけないわけで、そこではじめて本作の副題に目をやると、「シャガールの黙示」となっています。
では作中で登場人物たち、――特にある人物はこのシャガールについて何と述べているか。「あの無意味な色彩の濫費、何の中心概念もない構成、老一套化した画題、変型というよりは稚拙という言葉の方がぴったり来るようなある描線……」(118p)、――そうしたシャガールの風格をもっとも端的に表しているのがたびたび出てくる「子供の絵」という言葉でしょう。
で、こうした「子供の絵」が「黙示」を行っている、――これが副題の意味するところでもあるわけです。ではその「黙示」とは何なのか。ここまで判ると、一讀凡作としか思えないような二つの事件とその構図にもきっと何か裏があるんじゃないか、と思えてきます。
で、再びページを戻って読み返してみると、謎解きが終わり、二つの事件の真相も明らかにされ、犯人もその犯行方法も判ったあと、後日談として語られるあるエピソードに気がつくわけです。ここで語られるある人物の、「否! 否!」という言葉を添えたこの「叫び」。これによって、「下手糞な子供の絵」であったシャガールの絵の意味合いは見事に反転します。そしてその考察がこの人物の単なる妄想ではなかったことが、この人物がなしていたある行為によって裏付けられる。
そうなると、――何だか一昔前のミステリのような、さながら「子供の絵」のような凡作に思えた本作の事件の構図にも、その奥に「本当の姿」が隠されているに違いないということに気がつきます。さらに作中で、件のシャガールのステンドグラスの描写をよーく読み返してみると、……ってこのあたりからはさりげなーくネタバレになりそうなので、かなりボカしながら書いてみます。なお、漢字表記はメンドくさいのでカタカナ書きにしてみました。
158pには「三つのステンドグラスすべてが、シャガールの手になるものだ」とあるので、ステンドグラスは三枚あることが判ります。その三枚の特徴がその後に述べられているのですが、中央の窓にキリストの磔刑図やイサクの犠牲、十字架降下、ヤコブの梯子が描かれている。そして左側のグラスには「七枝」の「燭台」。右側にはシャルル七世の戴冠式とジャンヌ・ダルク。ちなみにこの構図は160pの記述によると「シャルル七世の右側に立って、剣のようなものを振りかざしているのがジャンヌ・ダルク」とあります。
さて、本作では二つの殺人事件(謎)が描かれ、そこへ探偵・瞬一郎の推理によって一つの真相が提示されて、物語は終わります。いうまでもなく本格ミステリにおいて、事件となる謎と真相は対になっており、本作においてはさらに一つの真相は二つの事件(謎)を連關する働きをも担っています。
三枚のステンドグラス――そして本作の事件(謎)と真相をそれぞれに重ねるとどうなるでしょう。「燭台」のところに倒れていた浮浪者の事件と「七枝の燭台」を描いた左側のステンドグラス。そして転落死と「シャルル七世の右側に立って、剣のようなものを振りかざしているのがジャンヌ・ダルク」を描いた右側のステンドグラス。その真ん中に「真相」となる「キリストの磔刑図やイサクの犠牲、十字架降下、ヤコブの梯子」を置いてみると……。
さらに60pから引用すると、「彗星のごとく現れたジャンヌ・ダルクが、……弱気なシャルル皇太子に王冠を抱かせた」という歴史的人物配置と、転落死を「黙示」しているとおぼしき右側のステンドグラスに事件の構図を重ね合わせると……。
まあ、このあたりを讀み解いてみせるのはプロの評論家の仕事だと思うので、ボンクラの自分がグタグタ述べるのはこのくらいにしておきます(爆)。
作中でくどいくらいに語られていた「下手糞な子供の絵」というシャガールのステンドグラスの意味合いを、後日談のなかで語られる「否! 否!」という言葉によって見事なまでに反転させることで、読者に対してシャガールのステンドグラスは果たして何を「黙示」していたのか、という謎を提示してみせるというイジワルぶり。
フツーだったら、ここで瞬一郎が衒学も交えて事件の構図とシャガールのステンドグラスが「黙示」していたものについて詳しい解説をしてみせるべきところを、おそらく深水氏は「いやー、現代本格を読み慣れているマニアの皆さんだったら、この作品の『子供の絵』みたいな単純に過ぎる二つの事件の真相だけではなく、シャガールが「黙示」していたものを讀み解くことによって初めて本当の構図が現れるという仕掛けがあることくらい、当然気がついてくれるでしょうからねー、そこまでいうのは野暮ってものでしょう。まさか瞬一郎が推理してみせた事件のトリックだけからこの作品を凡作なんていう筈はないでしょう? うはははは」なんて嘯いている姿が目に浮かんできます。
さらにいえば、事件のトリックに目を配れば配るほどその「子供の絵」のような昔風味のトリックから「凡作」という烙印を押してしまいかねないという騙しの構造を持っているがゆえ、逆にいうと、本格ミステリ・マニアの「読み」の力を深水氏に試されているともいえるわけで、そうした意味では「エコパリ」のような明快なカタルシスの感じられた作品に比較すると、本作の評価は二分されるのではないかな、という気がします。
いずれにしろ深水黎一郎という作家が最高にイジワルで、最高に知的な作家であることが明らかとなった本作、深水ミステリの深奥はその構図の仕掛けにアリ、と感じている現代本格のマニアには強力にオススメしたいと思います。