記憶喪失の女を語り手にトンデモないことが進行しているとおぼしき状況が綴られていくという結構に、作者は山田正紀氏? なんて思わず表紙を見返してしまうような展開から、最後は「眩暈を愛して夢を見よ」を彷彿とさせる讀後感へ収束するという驚きの構成、さらにはその結構に凝らされた極上の仕掛けに、自分は本作を大變な力作として大いに愉しんだ次第、……なのですけど、本編を讀了した後、卷末の大矢氏の手になる解説を一讀するに至って、この自分の讀み方、愉しみ方のほとんどがどうやら致命的な誤讀に基づくものであったことが判明して、個人的にはかなり鬱、になってしまいましたよ。このあたりについては後述します。
物語は女が目を覚ますと、いきなり自分が誰なのか分からない、という記憶喪失に陷っていることが発覚、さらにはどうやらセックスの最中だったらしく、そのお相手は何と自分と同様、記憶に障碍を持ったスケキヨだった、――と、もうこれだけでもお腹イッパイな展開を序盤から大開陳、さらにこの記憶喪失の女の語りに時折カンボジア體験記などが挿入されるという、いかにも何か仕掛けがありげな構成も山田ミステリ的。
しかしこの記憶喪失女が周圍の状況を把握していくうちに、隱されていた犯罪の構図が明らかにされていくという結構でありまして、ここに「騙り」と緻密な伏線を巡らせた仕掛けが凝らされているところなど、まさに現代本格の力作、といえる一編です。
本格ミステリ・マスターズの一冊らしく、仕掛けの核心が例によって例によるアレ系のアレゆえに、その詳細については多くを語ることが出來ないものながら、個人的にはやはり記憶喪失の女がスケキヨ・ルームから外界へと飛び出した瞬間に、怪しいサンタやら何やら訳の分からない人物たちの登場によって、彼女を取り卷く世界が樣々な歪みを見せていくという展開が秀逸で、彼女がコトの眞相の核心へ近づくにつれて明らかにされていく事件の構図と、彼女の愛を主軸にした企みが次第に連關していく様は相當にスリリング。
そんな譯で、自分は記憶喪失女を語り手に自分探しという謎をヒロインである語り手に託した展開を「裝い」つつ、考え拔かれた「騙り」の技巧とそれを支える構成によって、背後に巡らされた操りとそれを主軸にした事件の「構図」を編み上げていく巧みな構成に驚嘆、感心した次第なのですけども、……讀了後、大矢氏の解説を一讀するに、本作のキモは現代本格の典型ともいえる考え拔かれた事件の「構図」の見せ方にアリ、とした自分の讀みはマッタクの的はずれであったことが判明。作品そのものは大いに愉しむことが出來たとはいえ、その讀みがどうやら自分の勘違いに基づくものであったことが判明するにつけ、何だか非常に複雜な心境、ですよ。
解説の大矢氏曰く、本書は「記憶喪失の人物を主人公に設定した」小説であり、「過去の全てを忘れている、自分が誰なのかも分からない」という設定から、島田御大の「異邦の騎士」や夢野久作の「ドグラ・マグラ」などと同じ系列に分類出來ると指摘、
この三つのタイプがミステリとして成立する中核が、「私は誰だ」という最大の謎にあることは論を俟たない。
……主人公は一切を忘れた白紙の状態なのだから、手がかり搜しのスタート地点は主人公も読者も同じと言って良い。
とし、その後、主人公とともに「私は誰だ」を推理する讀みの方法についてかなり詳細な説明をくわえています。
そうなると、「私は誰だ」という點を最大の謎と見なす點からして、ヒロインが抱えている「最大の謎」を軽くスルーして、ヒロインを取り巻く事件の「構図」を意識しながら本作を堪能した自分はまったく的はずれな讀みをしていたことになる譯ですけど、何だかそれで終わってしまっては非常に悔しいので(爆)、以下、この點についてもう少し考えてみたいと思います。
大矢氏が記憶喪失ものとしては本作と同じタイプとして挙げている御大の「異邦の騎士」では、記憶を失った人物が「私は誰」という「最大の謎」の答えを探していく課程で一人の女性と出會い、彼女との平凡ながら幸せな日常を、記憶を失った男の視点から描いていくという、いかにも普通小説を裝った構成によって、その背後で密かに進行しつつある操りを策謀を巡らせた事件の「構図」を隠蔽するという技法が際立っていた譯ですけども、これに比較すると、本作はその構成からして「異邦」とはかなり異なる風格であるような気がします。
まずもって記憶を失った語り手の前にスキキヨは登場するわ、怪しいサンタが訳の分からないことを語りかけてくるわと、記憶喪失になってしまったヒロインの周圍へ疊みかけるかのように違和感ありまくりの要素を鏤めている譯で、さすればこの違和の背後で密かに進行しつつある事件の「構図」を想起してしまうというのは、ミステリ讀みとしてはごくごくフツー、だと思うのですが如何でしょう。
「異邦の騎士」の場合、普通小説的な展開によって、その背後で進行しつつある操りを軸にとした事件の「構図」を隠蔽しようと努めていたのとは対照的に、本作では、序盤からスケキヨやサンタ、さらには彼らの奇妙な言動などなど、ヒロインの周圍に奇妙な状況を鏤めてみせることによって、何やら隱微な犯罪の「構図」がその背後に存在するであろうことを讀者に對して大胆にも明かしてしまっている。
そうなると、これまたやフツーのミステリ讀みとしては、ヒロインにとってはもっとも切實な謎である「私は誰」なんていうことはとりあえず脇において、「主人公はいったいどのような犯罪に巻き込まれているのか」「今、ヒロインを中心としたこの状況で何が起きているのか」「スケキヨやサンタとヒロインはこの犯罪構図の中でどのような役割を担っているのか」というフウに、その隱された「構図」に目を向けてしまうのもまた必然、否、――寧ろ、ヒロインのみならず別の語り手の文章をも挿入することによって、物語全体にも何かしらの企みがあることさえ仄めかしているようにさえ思えます。
しかし解説で大矢氏は、讀者も記憶喪失のヒロインに寄り添いながら、「私は誰だ」という「最大の謎」について推理する讀みを主張、「操り」や「構図」を意識した現代本格の「讀み」を試みて本作を大いに愉しんだ自分は非常に複雜な気持ちを抱えたまま本を閉じることになってしまったのはかなりアレ。
しかし大矢氏の解説通りに、本作が「私は誰」を最大の謎とするミステリで、讀者にその謎解きを委ねた作品だとすると、ヒロインの語りだけではなく、その途中に挿入されたカンボジア体驗の「騙り」は餘剩、破綻ののようにも感じられるし、いきなりスケキヨが登場したり、サンタが登場したり、あるいは季節感に仕掛けられた違和感など、前半から疊みかけるように開陳されていく樣々な謎は、「私は誰」という「最大の謎」の效果を減じてしまっているようにも映ります。
個人的には、この犯罪の構図に卷きこまれたヒロインが操りの核心に到り、その首謀者の存在を知った刹那の驚きや、ヒロインの過去とスケキヨの連關が明らかにされた後、ヒロインの愛と哀しき業がよりいっそうの重みを持って迫ってくる展開、さらにはこの「騙り」の仕掛けが明らかにされた最後に、ある人物の名前を明示してみせることによってヒロインの存在がこの事件の「構図」から抹消されてしまうという顛倒の極み、さらにはその名前を開示した人物と對處させるかたちでヒロインの名前の方は最後まで明かさないことによって、そこからじわじわと立ち上ってくるヒロインの哀切など、――仕掛けによって人間を描こうとする愛川氏のこころみに自分は大いに愉しませたもらった次第なのですけども、よくよく思い返してみると、これら本作の仕掛けと技巧がもたらす愉悦は、「私は誰」という「最大の謎」に挑むヒロインの意識などそっちのけに、隠された事件の「構図」を探り出すという「讀み」によってもたられていたことを考えると、この高揚感を伴った讀後感に複雜な思いを抱いてしまうのでありました。
それでもごくごくフツーに考えると、もし大矢氏が解説に述べている通りに、本作は「異邦の騎士」と同じタイプの物語だとすると、これまた大矢氏が指摘しているように彼女の名前が最後まで明かされないというのは、その「最大の謎」に對する解答を放擲してしまっているようにも見えるし、上にも述べた通り、讀者の關心をその「最大の謎」から反らすかのような様々な違和を鏤めた序盤からの展開や、別の語り手の「騙り」を挿入させた構成などは、「私は誰」を「最大の謎」とするミステリとしては破綻しているような気がするのですが如何でしょう、……というか、こんなふうに感じてしまうのはやはり自分がボンクラゆえなのかと思うと、ますます鬱になってくるのでこれくらいにしておきます。
ヒロインを取り巻く周囲を俯瞰しながらその背後に隠された「構図」を思いうかべながらの「讀み」を行うという、本作に企圖された「讀み」とは異なる愉しみ方をしてしまった方は、もしかしたら解説は軽くスルーした方がいいカモしれません。