「ラットマン」の後に緩いコン・ゲームもの? なんてかんじで讀み進めていったら最後の最後でまたまた見事にやられてしまいました。「ラットマン」と色々な意味で比較してみたくなる作品で、個人的にはなかなか堪能しました。
借金を抱えたばかりに家族を失ってしまった詐欺師崩れのダメ男二人が、ひょんなことから一人のギャルと知り合い、仲間とともに惡徳金融野郎に復讐する、――と、表に見えている物語を纏めてみるとこんなかんじながら、そこは「ラットマン」という高度なミスディレクションの技巧を驅使した傑作の後の一冊でありますから、ユーモアも交えた軽いかんじのコン・ゲーム、――な筈がなく、ユーモアも緩さもあるとはいえ、そこは道尾ミステリ、讀む側としてもゆめゆめ騙されないように気をつけなければなりません。
上にも書いた通り、色々な意味で「ラットマン」を想起させる技巧が使われているのが本作の大きな特徴でもありまして、例えば主人公の過去の逸話を重ねていくことで、讀者が誤導される素地を作り出し、敢えて主人公に語りを託さずに主人公の視點から物語を描き起こしていくところなど、「ラットマン」において見事な效果を挙げていた技法も存分に活かされています。
本作が秀逸なのは、よくよく眺めれば主人公も含めて登場人物たちの過去の逸話はかなりの悲壯さを感じさせるものながら、全体的に明るいトーンで語られているがゆえに、ダメ男二人の緩いエピソードも非常に輕妙に感じられ、その雰圍氣がまた最後の仕掛けに絶妙な效果を挙げているところでしょう。
実際、冒頭のダメ男たちの逸話などは、そのあまりのアンマリさに何だか平山センセの小説かと勘違いしてしまうような激しさでありまして、それを非常に輕妙な筆致で緩いユーモアを交えながらさらりさらりと描き起こしていくものですから、仕掛けのことなどスッカリ忘れて、ダメ男たちの奇妙な出會いから最後の大立ち回りへとイッキに引き込まれてしまいます。
緩さ、輕さというのが本作では前面に押し出された風格でありまして、これがまた讀んでいる間は「これって伊坂幸太郎?」みたいなノリで小ネタの詐欺テクや少女との出會いなど、技巧云々というよりは、寧ろ小説的なうまさで数々の輕妙な事件や逸話を交えて物語を進めていきます。
しかし、この緩さ、輕さというものこそが、いわば本作の技巧の要でもありまして、最後の「眞相」が明かされてから、あらためてこの輕さと緩さに着目しながら再讀してみると、本作におけるこの輕さと緩さの「過剰」さが、この「眞相」を隱蔽しながら、讀者を誤導させる仕掛けになっていたことが分かります。
普通、こうしたコン・ゲーム小説であれば、最後にダメ人間たちが一致団結してワルをやっつけたところでジ・エンド、となるところが、本作ではこの後からが本番で、個人的には特にこの眞相が開示される直前に、物語の中での時系列を入れ替えてとあるエピソードを挿入しているところが秀逸だと感じました。これによって物語はコン・ゲームを「裝った」風格から大きく旋回して、本格ミステリへと變じていくのですけど、こうした物語の風格「そのもの」を意識しながら誤導の仕掛けを凝らしているところも素晴らしいと思いました。
実をいうと、本作におけるミス・ディレクションの技巧は「ラットマン」と相似形をなすものともいえ、その部分だけを取り出していけば、誤導を重層化させた「ラットマン」の方が上、ということになるかもしれません。
しかし本作が「ラットマン」以上に優れていると感じたのは、やはり上にも述べたような、ジャンル小説的な括りを意識して、そうした物語が有している風格そのものによって誤導の仕掛けを達成しているところでありまして、そういう意味では本作、詠坂雄二氏の傑作「遠海事件」と比較しながらそのミス・ディレクションの仕掛けを色々と考察してみるのも面白いかもしれません。
さらに付け加えると、眞相が明らかにされた後、とある人物の視點から描かれていた物語が、本格ミステリ的な眞相開示によって、そうした「緩い」「軽い」コン・ゲーム小説フウの風格が一掃され、その風格の括りの中で語られていた物語が無化してしまうという、ある意味アンチ・ミステリ的(?)な狙いも素晴らしく、そうした結構がまた主人公の悲壯を際だたせる一方、それでも「餘韻」として殘されている「緩い」「軽い」風格が、物語全体が慟哭へと流れていくのを押しとどめているという、――この絶妙なバランス感覚も見事です。
道尾ミステリの十八番であるミス・ディレクションの技巧「そのもの」よりも、そうした結構も含めた技巧の素晴らしさを大いに堪能したい一冊といえるでしょう。「ラットマン」ほどの重さはないので、寧ろ一般の本讀みも充分に愉しめると思うし、寧ろ個人的には伊坂氏のファンあたりに讀んでもらってこの仕掛けに驚いてもらいたい、――なんて思うのですが、如何でしょう。