二回に分けてお送りした『幻影城』出版のいきさつの後、林佛兒氏による『推理雜誌』を創刊するにいたった話が續くのですけど、このあたりは日本のミステリとは関連が薄いので、今回は割愛して、次に島崎御大が希代出版で日本の推理小説叢書を編纂した経緯や、八十年代あたりからの台湾における日本の推理小説の出版事情などについて語っている『主編日本推理小説撰集』の部分を取り上げてみたいと思います。
日本推理小説撰集を編む
傳博……
二〇〇〇年以降を振り返ってみますと、それからの数年間、台湾のミステリ作品はなかなかの進歩を見せておりまして、二〇〇一年以降、台湾の推理小説は第二期に入ったと私は考えています。この場合、第一期は一九八四年十一月の『推理雜誌』の創刊から二〇〇〇年までですね、その前の七年間、即ち一九七七年から一九八四年は準備期ということになります。
去年、日本の三大新聞のひとつである『毎日新聞』から『台湾における日本の推理小説』というテーマで何か書いてくれという依頼がありましてね、日本の推理小説が台湾においてもっとも受け入れられたのは一九八六年から一九八八年で、これはだいたい二年間ほどで終わってしまいました。
一九八六年より前というと、ほとんどは林白出版社が專ら日本の推理小説を出版していました。台湾における日本の推理小説の流行の第一期は一九八七年ということになるでしょうね。これまでは林白出版社の寡占状態だったところを、皇冠出版が出てきてそれを打ち破ったのが一九八六年のことでした。
その翌年になると、今度は希代出版、志支出版、星光出版というふうに、次々に日本の推理小説を出版するようになってきたわけです。一九八六年から一九八八年の僅か三年間の間に出版された日本の推理小説は二百冊以上にものぼり、林白出版が日本の推理小説の出版を始めた一九七七年から八六年の間に出版した總數よりも多いです。
現在の状況にについては、私が希代で『日本十大推理名著全集』と『日本推理名著大展』などを編纂した経験について簡単に説明しておきましょうか。
希代の状況は『幻影城』に似ていますね。ある日、希代の社長である朱寶龍が高雄にやってきて、呉錦發に日本の推理小説叢書を出版したいと持ちかけて、誰か編集長はいないかということになった。そこで、彼が推薦してきたのが傳博だったと。
そこで、朱寶龍と一緒に台北に戻って、今度は李瑞騰に同じことを聞いてみると、彼もまた傳博がいいという。二人とも傳博を推薦しているわけです。そして朱寶龍が李瑞騰にちょっと傳博に電話してみてくれないかと頼むことになって、その翌日、私と朱寶龍、李瑞騰夫妻の五人が日本料理屋で会うことになりました。その場で私に編集長の話を持ちかけてきて、第一期には十冊を出そうと。私はその次の日の午後一時に希代出版へ赴いて契約をし、編集費のいくばくかをもらいました。
台湾では推理小説のジャンルは広くあるべきだと思うし、また讀者に對してもきちっとした情報を提供する必要があると私は思っていたので、本には解説をつけなきゃいけないと。で、それを私が書くことになりました。当時は、日本文学もいい、欧米文学もいい、でもそれらに解説の類はまったくついていなかったのですよ。
この解説をつけるというのは私が日本から持ち込んだものでしてね、私が希代でやった解説はレベルが高かったと思っています。また翻訳者にもしっかりと責任を持ってもらうよう、翻訳者紹介をもうけたのも私が始めたことです。それに私が選んだ本というのは、厚くもなかったので、出版社が内容を省略することもありませんでした。
續く。