傑作。今年リリースされた作品の中では道尾氏の「ラットマン」、そして某御大の「完全恋愛」とともに、「仕掛けによって人間を描いた」現代の本格ミステリとして大いに評価したくなってしまう逸品で、個人的には處女作の「リロ・グラ・シスタ」以上に堪能しました。
しかし今回もジャケ帶に「今、もっともひねくれた新鋭作家」とある通り、緻密な仕掛けと本格ミステリとしての誤導の技法などなど、その全てが大いにひねくれているがゆえ、「ラットマン」や「完全恋愛」ほど世間では支持されず話題にもならないのではないか、という杞憂があるのもまた事實でありまして、このあたりは後述します。
物語は、犯罪實録ものフウに「遠海事件」なる猟奇事件を軸にして、犯人の佐藤誠なる人物の視點からこの事件の犯行を描きつつ、また警察の側からこの事件を追いかけていくパートを交錯させ、途中にはコラムを添えて佐藤の内面に踏み込んでいく、――という結構です。
敢えてカッパ・ノベルズではなく、四六版でいかにもな犯罪實録ものフウに仕立てた装幀も秀逸で、冒頭の「はじめに」や途中に挿入されるコラムなど、おおよそ小説らしくない結構がまた周到なミスディレクションになっているという仕掛けも素晴らしい。
副題に「佐藤誠はなぜ首を切断したのか?」とある通りに、本作のキモは、猟奇殺人鬼である犯人、佐藤誠が何故この事件においては首を切断し、敢えて死体を放置したのか、そのおおよそ犯人らしくない、その犯行方法の謎に踏み込んでいく、という展開ながら、この首切断という「謎の呈示」そのものが、実際の仕掛けになっているという誤導の技巧は本作見所のひとつでもありまして、警察のパートによる犯人のアリバイ崩しや、犯人佐藤が逮捕されてから自供に到るまでのアリバイの真相など、普通のミステリらしい二転三転する醍醐味も備えつつ、それが最後の最後、眞打ちの探偵が登場してからの謎解きに至って、その展開が大きな反轉を見せるという結構は、處女作と同樣の驚きで見せてくれます。
そしてこの大きな反轉を見せるための仕込みがまた見事なのですけど、詠坂ミステリの個性でもある中二病の登場人物や、定型的なキャラ造詣など、その表面ばかりに目がいってしまって、それらの「真意」とその背後に仕掛けられた周到な誤導の技法にも思い至らず、本作も「リロ・グラ・シスタ」同樣に、「中途半端なミステリ」とか、「イタミス(痛いミステリ)」との判を押してハイオシマイ、になってしまうのではないか、と個人的にはそればかりが心配ですよ。
という譯で、以下はやや詳しく本作の誤導の仕掛けについても述べてみたいので、未讀の方はご注意のほどを。それとこの誤導の技法を比較するため、この作品の仕掛けについても言及するので、これについても未讀の方におかれましては、以下の文章はスルーしていただければと思います。
強度のミスディレクションを驅使した作品という点で、本作とあの作品の構造はかなり似ています。あの作品においては、倒叙式を裝いつつ、前半にその「犯行」を担う人物の過去を細密に描写することで、讀者の視線を主人公のそれに重ね合わせつつ、「犯行」の樣態そのものを誤導させるという技法を開示した後、今度は主人公を取り卷く状況を反轉させることで、物語の前提そのものをまったく違うものへと變えてしまう、――というふうに、あの作品の誤導は二重仕掛けになっています。
倒叙式の構成によってこの二重仕掛けの誤導を達成したあの作品に對して、本作では犯罪實録ものという外觀がまず仕掛けの一つとして機能しているところに着目でしょう。あの作品では主人公の過去を饒舌に語ってみせることで讀者の視線を主人公のそれに同化させるという、非常に小説的な技法によって、この第一の誤導を仕掛けていったのに比較すると、本作では百人近い人間を殺したという「犯人」の前提をムリヤリにつくりだしながら、その設定に感じられる強引さを、犯罪實録ものという外觀の設定によって見事に中和してみせます。
犯罪實録ものを裝いながらも、讀者は本書を本格ミステリ「小説」として讀む譯で、この「外觀」がもたらす前提によって、「佐藤誠はなぜ首を切断したのか?」というあからさまに呈示された謎「以上」の「犯行」を讀者は期待してしまう仕掛けになっています。さらにこのミステリ讀みの期待を補完するかのように、警察のパートでは、二つの殺人事件の「犯人」を佐藤誠とする「前提」によって捜査を進めていくシーンが描かれるとともに、ここで、ミステリとしては非常にリアリティのある「謎」として、アリバイ崩しが明示される。
この鉄壁のアリバイという「謎」によって、讀者は本格ミステリとしては当然の「犯行」を「犯人」に期待してしまうのですが、この犯行の樣態の誤導が第一の仕掛けだとすると、この仕掛けが明らかにされた刹那、今度は眞打ちの探偵によって、隱されていた事件の構図を「犯人」の前で推理してみせるという結構、――ここによって作者の仕掛けた第二の誤導の技法が明らかにされます。
本作のひねくれているところは、これだけでは終わらず、あたかも「これって飛鳥部センセ?」みたいなメタ的趣向をも添えて、隱されていた記述者の真相を開陳してみせるところでありまして、まず、捜査のパートそのものを誤導の技法の一部としている本作においては、探偵の不在もまた後半の眞相開示を盛り上げるための仕込みとも考えられる譯ですけども、眞打ちの探偵が実は「この人」だったというメタ的な意外性も確かに大きな驚きながら、個人的には「はじめに」と「コラム」を含めた犯罪實録ものを裝った外觀に仕掛けられた本当の「書き手」が誰であったのか、――「おわりに」の最後で明かされるこの人物の名前にある種の違和感を抱きつつ、その次頁の「卷末資料」で事の眞相の全てが明かされるという構成が本作最大の驚きどころではないかと思うのですが如何でしょう。
「リロ・グラ・シスタ」では、「犯人」の内心をこれから始まる映画の物語に託して描きつつ、敢えてそれをあかさまに語らないことで、逆に犯人の慟哭を際だたせていたのと同樣、本作でも眞打ち探偵による推理の中で(246p最後の「――今」から始まる台詞)この人物の「現在」を語りながら、「おわりに」の最後でその名前を明かしてみせることによって、この人物の慟哭を靜かに描き出しているところに注目、でしょう。
さらにいえば、この明かされた名前と、眞打ち探偵の語りの中で傍點を含めて強調されているその人物の現在を連關するだけでも一つの大きな物語に出來そうなところを、敢えて「語らず」に、その名前の「眞相」を「卷末資料」の中で素っ気なく一つの「事實」として明かしてみせるという引き算によって、作者はこの人物の無念と、人間の無情を描き出してみせます。
このあたりの作者のひねくれた人間描写にもうひとつ補足すると、「卷末資料」で述べられている「事實」に到る伏線もまた周到に準備されていて、この人物の名前の眞相に氣がついた刹那、初讀時には無意味にも感じられた冒頭の万引きのエピソードが大きな意味を持ってくる、――というよりも、この逸話こそが、最後の最後に明らかにされる驚愕の眞相の全ての端緒でもあり、伏線でもあったという構成も見事です。
また、無個性で、おおよそミステリに登場するシリアル・キラーらしくない「犯人」の造詣、さらには普通小説の視點で眺めても、おおよそ無感動、無感情で「人間が書けていない」ともいえる「犯人」の造詣が、眞打ち探偵の推理を經過した後、「他人を心底恨めるような気に」なって、「損得なく人を殺したいと」いう考えに到るラスト、――こうした人間の描き方こそは本格ミステリでしか爲し得ないものであり、個人的にはこのあたりを大いに評価したいところです。
また、ここにおいてはじめて「犯人」は、ミステリ小説の「犯人」らしさを獲得すると同時に、それが事件の「眞相」とは真逆であるという皮肉、――おそらく本作は冤罪問題を大きく取り上げることが本意ではないと推察されるものの、本格ミステリだからこそ、このような仕掛けによってこうした社會的問題にもアプローチしえるのだ、という道筋を示してみせたところもまた素晴らしいと思います。
――という譯で、個人的には本作、もっとモット多くの人に讀んでもらいたいのですけども、作者のひねくれぶりにピン、と来ない人には「中二病ばかりのボンクラ・ミステリ」なんて烙印を押されてしまいそうなところが大いに不安でもありまして、このあたりの予想される誤解も含めて、本作における「仕掛けによって人間を描く」という技法や、高度なミスディレクションの技法などを緻密に分析したプロの評論、解説を期待したいと思います、――というか、これ、処女作に刺激的な惹句をつけた佳多山氏が責任をとってやるべきだと個人的には思うのですが、如何でしょう。