「ウルチモ」の、――というよりは、「エコール・ド・パリ」の、と言った方が個人的にはシックリくる深水氏の最新作。「読者への挑戦状」も含めた本格の結構までをも仕掛けに用いて讀み手を誤導させる技法が秀逸だった「エコール・ド・パリ」に比較すると、そうした企みそのものはアッサリしているものながら、事件の様態によくよく目を凝らすと、やはり深水ミステリとしかいいようがない、伏線の技巧がまた見事な一冊でありました。
物語は、いきなりのオペラ講義から始まり、オペラとかにはマッタク明るくない自分などは思わず面食らってしまったのですけども、舞台のシーンが始まるやこれまた早くにコロシが發生、それも劇中でそのストーリー通りにガイシャが殺されてしまうというもの。
実際にコロシを行った人物は明々白々、しかし本来であればダミーのナイフでグサリと「演じて」みせるところが、本物のナイフにすり替わっていた、というところから、ナイフのすり替えを行ったのは誰か、そしてそれを行ったのはいつだったのか、という「事件」そのものに焦点を当てた謎が明示されるものの、物語の要所要所で語られるオペラの題目と登場人物とを照らし合わせながら事件の構図に至る伏線を張り巡らせていくあたりは、「エコール・ド・パリ」でも見られた深水ミステリの真骨頂。
しかし「エコール・ド・パリ」では、事件の構図を描き出す要ともなる論文が全文丸ごと纏めて引用されていたのに比べると、本作では探偵も含めた登場人物たちがそうしたオペラの蘊蓄を断片的に語っていくという結構ゆえ、後半の推理で明かされる連關から大きな衝撃を生み出す効果は希薄ながら、ここではもう一歩踏み込んで、「エコール・ド・パリ」に見られた、「裏」の事件における「犯人」の意志が生み出した事件の構図と、本作の構図とを比較してみる必要がありそうです。
「エコール・ド・パリ」では、本格ミステリの事件として作中で語られる「事件」の背後に、「語られるべき本当の事件」が隠されてい、それが推理の過程において明らかにされた瞬間、「犯人」の意図が浮かび上がってくるというフウに、「事件」の構図には「犯人」の意志が分かちがたく結びついたゆえに、それが強度の誤導として絶妙な効果を上げていた譯ですけども、本作では「犯人」の意志、意図という点に着目すると、事件の構図はより混沌としています。
本作では二つの殺人事件が語られていくのですけども、この二つの事件が不連續であることは讀み進めていくうちに何となく分かってはくるものの、ここではさらに個々の事件の表層に現れている事象もまた極度に細分化され、そこに「操り」を裏返したかのような事件の構図が隠されているという結構です。
さらにはそこに事件に關わることになった個々人の哀切が推理の課程で明らかにされていくという仕掛けでありますから、これまた「エコール・ド・パリ」と同様、大時代的な本格ミステリを期待していると、原理主義者などはこれまたいかにも小粒な作品、という印象だけで本を閉じてしまうのではないかという気がします。
本作では、「誤読する権利」「夢見る権利」、――「読み替え」を主題として、ミステリにおける「見立て」や「ダイイング・メッセージ」が語られていくのですけども、個人的には、「読み替え」という言葉が「誤読」「夢見」という真逆の印象を与える二つの言葉となって、それが事件の構図に組み込まれた個々人の心象を巧みに表している結構が素晴らしいと感じました。
またそうした「誤読」が「ずれ」を生み出し、第一の事件の被害者が殺される瞬間の心象を推理の過程で描き出してみせたところや、本格ミステリの要素としては、第二の事件におけるダイイング・メッセージを推理していく中でそれらを事件の構図と結びつけていくあたり、さらには第一の殺人において、何故「真犯人」が警察の捜査線上に上がってこなかったのか、というあたりを明らかにしてみせるところもまた見事。
本作における事件の眞相に、自分は何となく、道尾氏のこの作品を思い出してしまったのですけども、事件に關わることになった個々人の心象を淡泊に描いて物語を幕としてしまうあたりに、深水氏のストイックな一面を垣間見る一方、このあたりをもっとネチっこく描いてみせれば、昨今の「泣ける」「癒し」小説を渇望するフツーの讀み手にも手にとってもらえるのになア、……という感じる一方、警部の寒すぎる親父ギャグに始まり、件のエロビデオのタイトルに「堪忍して」という言葉を添えてしまうあたりに、六十三年生まれの作者とは同世代の感覚を共有しているとの思いもまた強く(爆)、深水氏には「メフィスト」の良心として、次なる力作を期待してしまうのでありました。