めざマシーン殺人變化。
マニアとして全力で應援している出版芸術社からリリースされた横溝正史自選集ですけど、とりあえず「本陣」と「蝶々」が収録されている一卷をゲットしてみました。「本陣」も「蝶々」も角川文庫で揃えているとあれば、本文を目當てに今回の自選集を取り揃える意味というのもあまりないような氣がするんですけど、まあそこはそれ。
一應、文庫で持っているとはいえ、マニアの方にはやはりジャケ帶に「金田一耕助初登場時の付録や回想等、稀少資料を多数収録!」とあるところの稀少資料というのはいったいどんなものなのか、というのが氣になるところかと思います。で、結論からいってしまうと、まあマニア的な資料價値があるかというと正直微妙、でしょうか。
件の資料の方は「本陣」と「蝶々」に分かれているんですけど、「本陣」の方の資料リストを全て挙げると以下のようなかんじ。
「探偵小説への飢餓」(「宝石」昭和二十一年四月号)
初刊本「あとがき」(青珠社「本陣殺人事件」)
「本陣」「蝶々」の頃のこと(「推理小説研究会」)
途切れ途切れの記・10(講談社「横溝正史全集」月報)
「本陣殺人事件」由来(毎日新聞「真説金田一耕助26、27」)
「一人の金田一耕助の死」(「真説金田一耕助20」)
城昌幸「横溝編集長の頃」(「幻影城」昭和五十一年五月増刊号)
實際に書かれているものはというと、終戰に探偵小説が書けるとあって「さあ、これからだ!」と正史が心中絶叫した、とか、城昌幸から執筆の依頼があって「本陣」を書くに到ったいきさつ等等、重複しているところもあったりしてアレなんですけど、そんな中、城昌幸の手になる「横溝編集長の頃」は、短篇ではキッチリと纏めた小咄で魅せてくれる作者のいつになく亂れた文章にちょっと吃驚してしまいました。
またこのエッセイによると、昔は渡辺温も一緒に夜の十時あたりから銀座で飲み始めて、銀座がお看板になると今度はタクシーで横浜本牧の店に繰りだし、最後に鎌倉の渡辺温の家にたどり着くのが午前三時、――なんてこと夜の豪遊を愉しんでいたそうですけど、ここから話は脇道に逸れまくりつつも、さりげなく渡辺温の死や渡辺未亡人の店について言及しているところには、ぐっとするものがあります。話は限りなく脱線しながらも余韻を残す文章はやはり旨い、と感じた次第ですよ。
で、今日あらためて「本陣」だけ再讀してみたんですけど、この中で炸裂するトリックと犯人はキチンと憶えていたとはいえ、事件の動機に關してはすっかり失念しておりまして。これ、當事と今の世俗との價値觀の違いがあるとはいえ、この動機の異樣さは今讀むと非常に斬新に感じられてしまうところが何ともですよ。
この動機から殺人を犯すに到る犯人の性格が最後の推理で明らかにされるのですけど、この性格というか性癖が當事の世俗の重みと絡み合って、アンマリな殺人衝動へと到ったのだというのにも頭を抱えてしまいます。
またすべての犯行が犯人の完全なる指揮下におかれていなかったところや、ある人物のゲスっぽい惡ノリが事件の解明を困難にしているところなど、件の超絶トリックばかりに目がいってしまいがちなんですけど、寧ろ現代に再讀すると、この惡ノリによって事件がますます尖鋭化されていったという謎解きや、三本指の不氣味男や猫の死など、事件の伏線ともなりえるエピソードに怪奇趣味を交えて讀者の目線を逸らそうとする企みなど、その小技の巧みさに関心することしきり、でありました。
事件の方はあまりに有名なので、ここでもうあらすじを述べるまでもないかもしれないんですけど、作家である正史が聞いたというとびっきりの殺人事件を語る、という構成です。
封建主義ありまくりの田舍の大屋敷で、新婚初夜にコロコロコロコロシャーン!という琴の音ともに殺人事件が發生、新郎新婦は日本刀でバッサリ切られて部屋ン中で死んでいるし、凶器と思われる刀は庭先に突き立っている。さらに部屋の屏風には三本指の手形がベッタリとついていて、……という話。
ここへ事件前にこのお屋敷を訪ねてきたという三本指の不氣味男の存在や、夢遊病持ちの女、さらには猫の死などの怪奇趣味を鏤めて物語は展開されるのですけど、中盤にミステリマニアの男が同樣の方法で死にかかるものの、基本的に物語のキモとなるコロシは上に述べた一件のみ。
日本家屋に琴や屏風といったアイテムが、洋モノのミステリばかりを讀んでいたマニアにしてみれば當事は非常に斬新に感じられたかと思うのですけど、まあ、この大仕掛けのトリックだけでは個人的には、チと物足りなくも感じられます。寧ろ現代にこの作品を讀むとしたら、やはりこのハジケた動機の方がかえって新鮮に感じられるのではないでしょうか。
また、この動機に絡めて殺された女のことを語る金田一の推理も奮っていて、「彼女がすでに男を知っていた。彼女の体内には他の男の血がながれていることがわかったのです」、……って男と寝ただけで「血が流れている」と表現してしまう金田一の言説も現代的な視點で見るとかなりアレ。
また、金田一の推理ではこの事件の構造について「ふつうの殺人事件や探偵小説と、順序が少し逆になっている」と喝破するところは成る程、と思いました。確かに犯人が事件發生の段階でアレしてしまっているとはいえ、犯行が暴かれた後に犯人がとる行爲も含めてこの事件を俯瞰するとそういうふうにも見える譯で、このあたりの視點の持ち方は面白い。
正史というと個人的なお氣に入りは「獄門島」と「蝶々殺人事件」だったりするんですけど、自分的な好みとは少しばかり外れるとはいえ、この動機のハジケっぷりは今讀むと連城フウの奇天烈な動機にも通じるものがあるようにも感じられたりして、なかなか愉しむことが出來ました。
因みに自分が持っている角川版の「本陣殺人事件」のジャケは杉本一文の繪で「車井戸はなぜ軋る」と「黒猫亭事件」を収録。一方、今回リリースされた愛藏版のジャケのデザインはちょっと微妙、ですかねえ。
「蝶々殺人事件」と「本陣殺人事件」のタイトルを縦書きにするのはいいとしても、そこに「Chou-Chou Satsujin Jiken」「Honjin Satsujin Jiken」とローマ字のルビをふるというセンスは如何なものか。せめて「バタフライ・マーダーケース」とか恰好いい英語タイトルを勝手にデッチあげた方が洒落ていたんじゃないかア、なんて考えてしまったのでありました。