饒舌男の一発屋列伝。
キワモノの傑作を発掘するシリーズ第一回、という譯ではないんですけど、今回は純文學畑の作品であり乍らSF、そして幻想文学の風味も濃厚な怪作、別唐晶司の「メタリック」を取り上げてみたいと思います。
リリースは94年でありますが、實際にこの作品が「新潮」に発表されたのは93年。もう十年以上も前の作品ということになる譯ですが、その後の作者の消息は杳として知れず、一発屋で終わってしまったことが殘念でなりません。
AI、コンピュータ、腦と身體、自我といった一級品の素材に、過激で奇天烈な装飾を施した物語は當に破天荒。「デカルトの密室」がハリウッドのエンターテイメントであるとすれば、こちらはどう轉んでも中野や渋谷の小劇場でひっそりと上映されるアングラ映畫。それでもこの強迫的な毒氣は捨てがたく、マニアにとっては偏愛したくなる一册といえましょう。
物語は奇病に罹りまくりの天才科學者と、その友人の研究仲間の視點の雙方から語られるのですが、とにかくこの天才科學者の一人稱の文章が強烈。あらすじを簡單に纏めれば、幼少の頃からあらゆる奇病に罹りまくり、肉体を嫌惡していたおれは、腎細胞癌に犯されたのを契機に腦を肉体から分離させ、腦髓のみで生きることを決意、親友のわたしに、猿の実驗で成功したこの技術を自分に行うよう要請するのだが、……という話。
當にトラウマ博覽会とでもいうべき、おれの過去が凄まじい呪詛を交えた言葉で吐き散らされ、一方、頭は良いけど小市民のわたしの記述はおれのパートとは對照的に淡々と語られます。わたしはおれの天才的な才能に敬意を払いつつも、そのあまりにマッドサイエンティストな考えにタジタジとなり乍ら、彼の強い希望を拒絶することも出來ず、ついに彼の肉体と脳髄を使っての実驗に着手します。
物語の中核をなぞればこれだけのお話なのですが、ネクサスというロボットへの偏愛や、機械への執拗なまでのこだわりがこれでもかこれでもかッというくらいに描かれているところがタマラないんですよ。要するに三島にとってのデカタンスが、おれにとってのメタリックという譯で、ギラギラしたもの、メカなものへの偏執ぶりは尋常ではありません。
さらにはおれの米国研究生活時代のトラウマが凄まじい白人黒人への憎惡となって爆発し、これが後半の暴走へと繋がっていくのですが、ここでも作者のやりすぎぶりは留まるところを知りません。物語の本筋とは完全に解離しているテーマなのですが、要するに肉体があるから差別があるんだ、だから肉体などなくなってしまえばいい、という論理の転倒、というか爆走が何ともいえません。白人に靡くイエローの莫迦女への憎惡も交えたおれの手記は當に言葉の暴力。その一種尋常ではない言葉の強さにタジタジですよ。少しばかり引用しますとこんなかんじ。
空港で街中で多くの日本人に出会う。だが、お互い相手が日本人だとわかると視線を逸らす。若い日本人女性などその最たるものだ。おれたちはそうすることで自ら納得しているに違いない。そう、おれたちイエローは醜いのだ。そして、やつら、ホワイトがおれを見る眼は人間を見る眼ではなく昆虫を見る眼だ。ここではおれは蛆虫に過ぎないんだ。
ニューヨークの繁華街をホワイトやブラックに混じって歩くおれの心境が分かるか。おれはまるで、いやまさに慘めな醜いイエロー・モンキーだ。皆がおれの頭上を見下して通り過ぎていく。……いいか、人間に肉体がある限り、おれたちイエローはブラックとホワイトに従属しなければならない。これはどうしようもない事実なんだ。
何というか、この白人黒人に對する呪詛は裏家畜人ヤプーとでもいうか。ヤプーのエログロをバイオレンスに転化させたのが本作後半で展開される白人黒人亞細亞人莫迦女鏖パーティーでありまして、おれはタナトス4型というメタリックなサイボーグヴィーグルを驅使して白人黒人をメッタメタに殺しまくるのですが、句讀點を無視して吐き散らされた言葉がマシンガンのように繰り出されるシーンは當に壓卷。以下、軽く引用してみますとこんなかんじ。
カウンター内ではイエローの男たちが奴隸のように忙しく立ち働き、テーブルの間にも、蠢く肉塊の間を縫って動き回るイエローの小男ウェイターたちが垣間見える。やつらの顏には無が浮き出ている。へまをしでかしたウェイターをホワイトの雄豚が殴っている。それを見て、白豚にしなだれ掛かったイエローの雌豚がバカみたいに大口を開けて笑っている。快楽を貪り合うホワイトとブラックの雄豚とイエローの発情した雌豚たち。そして、感情の一片すら失って奴隸ロボットのようにやつらに仕えるイエローの男たち。
……眼前には恍惚の眼をしてブラックの肉体を貪り喰っている発情したイエローの雌豚がいる、なんだこいつはこの淫売はその眼は何なんだおまえはおまえの醜さが分かってんのかええっ!どうなんだよこの売女!おれのマシンガンがその売女と絡みついたブラックに向かって炸裂する、売女とブラックの肉塊が紅の鮮血を撒き散らして瓦解していき血にまみれた肉片が噴水のように飛散していく、はははっ結構芸術的じゃないかバカ野郎が一声もあげられずに粉々になっちまいやがってざまあみろってんだこの売女地獄に落ちやがれ……
今でこそこういう過剩に過ぎる文章というのは當たり前になってしまいましたが、當事はかなり驚いたものです。ちょっと早すぎたんですかねえ。腦と身體といった主題に、狂氣にも似た被差別意識という裏テーマを添えた本作は、當事SFにしては中途半端、純文學としても物足りないという批評が目についたのですけど、この雰圍氣、SFというよりは怪奇小説のテイストに近い。
七十年代SFよりももっと前、海野十三などの怪奇小説の系譜に連なる作品だと自分は思う譯であります。怪奇小説として見れば、このテーマに深く入り込まずに中途半端なところで濟ませているところや、それでいて裏テーマのディテールにこだわりまくるやりすぎ感は寧ろキッチュなものとして愉しめるし、過剩なほどの被差別意識とそこから派生した暴力描写もグロとして讀めると思うのですよ。
個人的には狂氣すれすれのところで踏みとどまっているこのあやうい感覺がお氣に入りなんですけど、次作もリリースされたようすはないし、どうにも一発屋で終わってしまったところが何とも殘念です。
作者の後書きをみる限り、次作を書くつもりもあったようなのですけど、どなたか作者の現在の消息をご存じの方、いらっしゃいますか。
饒舌過ぎる文体とある意味、ヤバ過ぎる白人への逆差別意識に眩暈がしてしまう傑作、とうか怪作。SF云々よりも、何でもアリの怪奇小説ファンに強くおすすめしたい作品です。