傑作。
前作「写本室の迷宮」で豫告されていた「本編」が遂に登場です。文庫落ちした「写本室」のジャケ帶で近日刊行、みたいなことがいわれてから遲れに遲れてのリリースとなった譯ですが、本作を讀み終えて納得がいきましたよ。これだけの壯大にして重厚な物語となれば、完全な形に書き上げるのに時間がかかったのも納得です。
さて、豫告編であった「写本室」も品格の感じられる本格ミステリでありましたが、こちらは端正な謎と推理の構造を持ちながらも、歴史の「もしも」を物語の骨子に据えた冒險小説的な風格に仕上がっています。鮎川哲也というよりも、「ベルリン飛行指令」、「エトロフ発緊急電」、「ストックホルムの密使」と續く佐々木譲の三部作にその雰圍氣は近く、そこへ逢坂剛のダンディズムと島田荘司の奇想を加えたとでもいえばいいでしょうかねえ。
まずは頁をめくって、見開きに掲げられた主要登場人物の多さに驚きます。豫告編「写本室」で奇妙な事件に巻きこまれ、「イギリス靴の謎」とそれに纏わる手記の謎解きをすることになった、推理作家にして大学教授の富井がその最初に名前を連ねてはいるものの、本作は寧ろ星野泰夫を主人公にした物語と考えた方がいいでしょう。というのも、全編、この星井の手記と、その時代の歴史的な出來事が併行して語られるからでありまして、富井がまともに謎解きを始めるのは、この手記が終わって最後の一章だけですから。
という譯で、富井教授は完全に脇役、そして本編となる星野泰夫の手記が滅法面白いんですよ。プロローグとなる「五つの情景」で手記の謎解きに關連した歴史事件がいくつか語られる譯ですが、その中でピンと來ないのが、最初の断章でありまして、これが本編の一番大きな謎に關係していることとが明かされるのは物語の謎解きも終えた最後も最後。まずここは深く考えずにやり過ごし、「イングランド カンタベリー」、「ドイツ ミュンヘン」と續くプロローグの断章に進みましょう。
續く第一章からは、星野の手記が彼の手になる一人稱で語られ、そのあとに歴史的出來事を続けて語るという體裁になっています。臺頭するヒトラー率いるドイツ、そしてゲシュタポ、イギリスやフランスの諜報部員が暗躍する時代背景も絶妙ですが、そこで二つの殺人事件が讀者の前に提示されます。
ひとつはガーンジー島で起こった不可能犯罪で、これにプロローグで少しばかり顏をみせた柳生という日本人を絡めて展開されます。要塞の上に死体が捨てられていて、その建物の周囲にはコンクリートが流し込まれていたのですが、まだ乾いていないコンクリートの上には足跡がなかった、果たして犯人はどうやって死体を要塞の上まで運んだのか。星野は在ベルリン海軍武官府に勤務する義兄、大石の密命を受けて、この殺人事件に關連している或る謎を解くためガーンジー島へと向かいます。
しかしこの事件に關しては、物語の終盤、富井による謎解きを待つことなく、眞相が明かされてしまいます。このあたりが勿體ないなあ、と思ったりするのですが、物語の根幹をなす大きな謎、「ロムルス」の存在が明かされ、更には後の事件にも大きく關係してくる人物と星野との出會いなども描かれ、物語は本格ミステリというよりは、歴史ロマンの雰囲気に傾いていきます。
第二の殺人は純然たる密室殺人で、ドイツ外務省の招待で行われたパーティの席上で発生します。ドイツ側の伯爵夫妻が密室で殺されるのですが、これもまた富井の推理を待つことなく、星野が手記のなかで解決してしまうんですよ。またまた勿體ないなあ、と思ったりする譯ですけど、この犯人が明かされる場面がたまらなくいい。ベルリンが陷落しようとしている當にそのとき、星野の口から語られる真相には唖然。こりゃ凄く單純な仕掛けではありますが、何というか、慘すぎます。
この謎解きが終えたあと、星野は陷落するベルリンから脱出するのですが、このあたりの手に汗を握る見せ場も素晴らしく、とにかく一時として飽きさせない。
しかしこの星野の手記が終わり、二つの殺人事件の謎は解かれても、この物語における最大の謎、「ロムルス」にまつわる内容はいまだ明らかにされておらず、さらには豫告編「写本室」でも提示されていた十の大命題も解かれていません。
ここでようやく富井の推理が始まるという趣向でありまして、正直、ここで述べられる富井の推理は歴史に明るくない自分にはどうにもアレなんですが、それでも順序だてて命題に込められた意味を解いていく推理の過程はなかなか愉しめます。そして手記を讀み終えた富井がこのなかで語られていた柳生中佐の妻を訊ねていく場面が堪らなくいい。柳生中佐はこの元妻に或る手紙を託していて、それにまつわる逸話を彼女が富井に語る場面では思わず感動のあまり落涙。とにかく映畫のように見せ場の多い物語なんですよ。
そしてプロローグの冒頭、おおよそ本編とは關係なさそうなシーンの謎が最後の最後に、ロムルスの眞相とともに明かされます。なるほど、こう幕引きを用意していましたか、と思わず感心しました。
讀んでいる間の頁を繰るもどかしさ、讀み終えたあとの充足感、と大滿足の一册。歴史浪漫、冒險小説的な結構に偏りすぎたきらいはあるものの、これだけの内容をひとつの物語にまとめ上げるとなればそれも必然的な歸結なのではないかなあ、と思います。
本格ミステリ好きも愉しめるでしょうが、寧ろ佐々木譲の三部作に感動出來た方、逢坂剛の小説が好きな方には強力におすすめしたい傑作です。「写本室」を讀んで本編が氣になる方は勿論マストでしょう。