異議あり、です。
ジャケ帶に曰わく、「御手洗シリーズ最高傑作がついに文庫化!」とあるのですが、本作が最高傑作だっていうのは初耳でしたよ、というか、そんなことある譯ないでしょう。外国を舞台にし、魔神が死体を引きちぎってばらまくという事件の派手さはシリーズの中でも際だっているものの、この仕掛けは御手洗シリーズの中では完全に異端、更には後半で展開される推理も驅け足、と缺点も多く、この作品が最高傑作とは笑わせてくれますよ文春さんも。
ではまるっきりの駄作かというとそんなことはなくて、島田莊司がこんな仕掛けを、という點では確かに驚かせてもらったんですけど、自分としてはかなり微妙、……ですねえ。
プロローグ「シアルヴィ館のカフェ」と題した章で、ミタライと仲間がロドニー・ラーヒムという精神疾患を患っている男性のことを語り始めるところから物語は始まります。そして「本当に信じられない事件」とミタライが口にする事件のことを、スコットランドの醉いどれ作家バーニー・マクファーレンが本にしようとしていることがほのめかされ、次の第一章へと引き繼がれます。
ここからは「ぼく」という一人稱でミタライがロドニーとの會話を語るという體裁をとっているのですが、ここで舊来からの御手洗もののファンは大きな違和感を感じるのではないでしょうか。まあ、自分もそうだった譯ですが。復讐の神、未来の記憶といった言葉で語られるロドニーの言動は全く不可解で、彼は自分が繪で描いた村に赴き人を殺してしまうと錯乱します。そんな彼に、ミタライは、自分がこの村に行って事件をとめてみせると宣言します。
續いてロドニーの手記が添えられているのですが、ここでは彼の過去が述べられます。更にこの手記の後半に、本題と離れたモーゼの逸話が挿入されるというのは最近の御大の御手洗ものの御約束でしょう。
第二章からは醉いどれ作家バーニーの手記となり、ここからが本当の物語の始まりです。とにかくここで展開される殺人事件は、御手洗が關わった事件史上最もド派手というか、氣狂いじみているというか、凄まじいものです。発見される死体はことごとく五體を引きちぎられていて、首はプードルの胴體と縫いつけられた状態で樹木の上に捨てられていたり、腕の方はというとセスナ機の座席に置かれてあったりという具合で、犯人はどうやって彼女たちを殺したのかというところは勿論ですが、寧ろ、何故犯人はそんなことをするのか、というところに比重が置かれて物語は進みます。
事件の最初からミタライは關わっていて、この事件の記述者であるバーニーのほか、村人たちと行動を共にしながら事件を解いていこうとするのですが、……何か喉の奥に挟まったような、落ち着かない調子なんですよ。最もこれについてはシッカリとした理由があって、ミタライが最後の最後で犯人がいたというアジトに警察たちとともに潜入して謎解きを始めるところで、そのことも明らかにされるんですけど、まさか御大がこんな仕掛けを使うとは當事は考えもつきませんで、ことの眞相に驚いたというよりも、御大もこんなことするんだ、とそっちの方に感心してしまいましたよ。
ただ本作の後半で展開される謎解きはどうにももの足りません。單行本で讀んだ時にそう感じたので、文庫になってからは大幅に加筆訂正されてこのあたりも改善されているかなあと期待していたんですけど、やはり感想は同じでした。そもそもこの仕掛けであるが故に、犯人が指摘された時點で回避しようのない捻れが生じてしまい、それが最後の謎解きの部分に妙な副作用をもたらしてしまっているのではないか、と自分は感じているのですが如何。つまりこの物語、この仕掛け、この構成であるが故に、どうにも舌足らずで驅け足になってしまったと思う譯です。
更に犯人の動機の部分もあまりに唐突で、この點でも御手洗ものには御約束のセンチメンタルな盛り上がりがありません。この當たりも本作は正統派の御手洗ものとは大きく異なる譯で、これが最高傑作っていうのはあんまりでしょう。その意味では最新作の「摩天楼の怪人」は當に初期から中期へと至る御手洗ものエッセンスを完全に具えた傑作であると思うのですけど、御手洗ものの正統な繼承といえる「摩天楼」と、鬼子の本作を比較するのは酷でしょうかねえ。
という譯で、ジャケ帶の「最高傑作」という文春の血迷った惹句に惑わされてはいけません。御手洗ものにまだ手をつけたことがない、という方は間違っても本作を手に取ってはダメ。本作は「占星術」から讀んできた御手洗シリーズのファンの為、というかそういう方々をアレする為の物語でありまして、御大の御手洗ものって何?という方はお呼びではない、そういう小説であります。
ミステリーマスターズが文庫化されるのは大變喜ばしいことなんですけど、ジャケ帶にこういう煽り文句をつけてまで賣ろうとするのはどうかと思いますよ。