連城三紀彦の壯大な失敗作にして最大の問題作。
彼じしんがキャリアとして持っている恋愛小説とミステリに、メタ・ミステリ的な手法を持ち込んで物語性をズタズタにしてしまいました。しかし單純な失敗作といえないところがあって、……というのもこの小説、月刊誌「すばる」に連載された小説を纏めたものだそうなんですけど、作者は連載という形式自体もミステリとしての仕掛けに持ち込んで物語を展開させているのです。
つまり、小説としての虚構、そしてその上位に位置すべきメタな現実、さらにはその双方を小説というかたちに纏めている「連載」という形式、……虚構とメタな現実を結んでいる結構までをも取り込んで、ひとつの小説に仕上げているんですよ。
まさにメタ・ミステリの極北というかんじで完全に実驗小説なのですが、物語の方も、途中でラストシーンが展開されたり、小説のなかの物語がたびたび変更されて繰り返されたりといったかんじで、物語性というものを何よりも重んじる作者の風格はどこへやら、展開、構成、そのすべてが完全に破綻しています。
しかし困ってしまうのは、上にも書いた通り、その破綻はすべて作者の策略のうちで、何処から何処までが作者の意図するものなのか、メタの外にいる一般の讀者にとってはサッパリ分からないというところです。
また登場人物の独白も、「僕」という人称でなされているのですけども、これだって、いったい誰なのか、作者じしんなのか、それとも小説のなかにおける登場人物の独白なのか判然としません。
初期以降の作者のミステリでは、登場人物のひとことによって事実だと思っていたことがあっさりとひっくり返される、ということがごく當たり前に行われるのですけども、これはあくまで小説という虚構のなかで行われているからこそ愉しめる譯で、ここに物語の神である作者じしんが登場して、今までのは嘘だった、などといわれしまってはもう、讀者として唖然とするしかないでしょう。
筒井康隆あたりがやってもさして驚かないような実驗的な手法も、恋愛小説、そしてミステリの書き手として絶對の信頼をおいている作者のようなひとにやられてしまってはなにをかいわんや、です。
連城三紀彦という作家の最大の持ち味である物語性をズタズタにして展開される本作はその意味では完全に失敗作といえると思います。しかし繰り返しになりますが、作者によって確信犯的に(つまり作者の意図として)書かれた失敗作というのは果たして本當に失敗作と呼べるのかどうか、自分はちょっと自信がありません。
愉しめたかどうかといえば、うーん、ちょっと複雜。実驗的な作風の小説は嫌いじゃないです。でも連城三紀彦という作家がやる意味があるのかどうか。とりあえず最大の問題作、とだけ述べることにして、この作品の評價については後世のミステリマニアにまかせるとしましょうかねえ。