「夏、十九歳の肖像」という初期島田莊司の名作を讀んで、最近の作風と比較してみたいと思った譯です。で、御手洗のもののなかでは新し目の本作を取り上げてみよう、と。
誰もが感じていると思うんですけど、これは二十一世紀の「眩暈」でしょう。
幻想性のある不可解な手記、そして冒頭の衒學問答。さらに構成に目をやると、「アトポス」や「暗闇坂」のような冒險譚を缺いているところなどなど、すべてが「眩暈」に酷似しています。それでいて全体が妙にトーンを抑えた渇いたタッチで描かれているように感じるのは、やはりワトソン役に石岡君がいないことが原因でしょうかねえ。
ルネスの冤罪が御手洗の活躍によって解かれる、という物語は、島田氏が描けば、吉敷もののように情感を含んだ物哀しい結末になる筈なんですけども(例えば「奇想」のように)、本作の場合、何だか冤罪が晴れたあとの餘韻もあっさりとしていてちょっと違うなあ、いつもの島田節ではないなあ、と感じたんですけど、これってやはり物語の舞台が日本ではない、そして登場人物がすべて日本人ではないということからきているのでしょうか。日本を舞台にした情感漂う感動物語は今後、吉敷ものだけに引き繼がれていくのかどうか。それはそれで何だかちょっと寂しいですよ。
そうはいっても「眩暈」と比較した場合、ミステリの仕掛けとしてはこちらの方が上質でして、自分はこの、ネジをはめられていた生首という奇天烈な死体のトリックはさっぱり分かりませんでした。御手洗の推理にはなるほどなあ、と頷いてしまったのですけど、それでも何だか物足りないんです。
「暗闇坂」の巨人の家のような、世界がぐるりとひっくり返るような感覚を味わえないのがちょっと殘念なんですけども、こういう大がかりな仕掛けは今の島田莊司には望めないのかもしれません。
まあ、それでもこういう大がかりな仕掛けのミステリは今後、谺健二に期待するとして、……寧ろ本作のなかで氣になったのは、御手洗と院長の最後の會話。「カール・ザゼツキーが、ベルギーだかどこかの教会からイコンを盜んだと疑われている事件」のことでして、これってまだ小説になっていませんよね?
もしかして今後、カール・ザゼツキーは御手洗の宿敵となって彼の前にはだかるのでしょうか、とこのあたりの展開に期待したいところなんですけど、果たしてどうなるか。