九月のイベントの仕込みに忙しく、ここ最近はマッタク更新が出來ていないのですけど、そんななかようやく色々と新刊がリリースされてきたのでまずは本作をイッキ讀みしてみました。「ラットマン」にも通じる技法によって事件の構図を描き出し、登場人物たちの慟哭を描き出した力作で大いに堪能できものの、その一方で、「CRITICA vol.3」に収録されている「本格ミステリの軒下で」のなかで市川氏が述べていた、道尾ミステリが内包する「イライラ・あざとさ」の正体が何となく見えたきたような気もして、――とこのあたりは後述します。
物語は、「母」の不在や家族のなかに「他人」がいるという共通項を持った二つの家族が龍神に導かれるように悲しい犯罪に巻き込まれていき、――という話。過去の逸話を織り交ぜつつ、いま進行しつつある事態を登場人物たちの内心に託してこの二家族の樣子を描き出していくのですけど、その結構は「ラットマン」の変奏ともいえる巧みさで讀者の意識を先読みしつつ、強烈な誤導を引き起こします。
登場人物の一人が意図した可能性の犯罪が、ある偶發的な要素によって捻れを引き起こし、それが後半の展開によって明らかにされていくのですけども、個々の登場人物たちの視点を通して「いま進行しつつある事態」の樣子を描き出していくという技法は「ラットマン」でも用いられた道尾ミステリの眞骨頂ながら、本作では「ラットマン」と異なり、その視点をまず大きく二つの家族のパートに大きく分けながら、それぞれの登場人物の視点に鏤めていることで、多重的な驚きを喚起する「ラットマン」に比較すると、その誤導の強度はやや控えめといえるかもしれません。
地の文で登場人物たちの葛藤をかなりの分量をさいて描き出し、それがまた読者を誤導させるための仕掛けへと通じている風格は連城ミステリにも通じる非常に難易度の高いものながら、本作がちょっとおもしろいと思ったのは、最終的に現出する事件の構図が何というか、「シャドウ」から「ラットマン」の系譜に連なる風格というよりは、折原的というか……もう少し「眞犯人」の出現に絡めてこのあたりの構図の雰圍氣を思い返すに、あるいは辻村女史的、といえるかもしれません。その意味では、「シャドウ」「ラットマン」とはまた違った読後感で、二つの家族の慟哭が描かれながらも、「眞犯人」があまりにアレなために(爆)、いつもの道尾ミステリとはやや違った趣を感じられる読者もいるのではないでしょうか。
で、上に述べた「イライラ・あざとさ」なんですけども、「シャドウ」にしろ「ラットマン」にしろ「片眼の猿」にしろ、自分は今まで道尾ミステリを読んでいるあいだにそうしたことを感じたことはなかったのですけど、本作では「イライラ」というほどではないにしても、ちょっとしたもどかしさを感じたことが発見でありまして、そのあたりについて書いてみようと思います。
市川氏が「本格ミステリの軒下で」のなかで、道尾氏の「ラットマン」について述べているところをざっと引用すると、
……この作品を読んで、気になったのが、著者である道尾秀介の独特の「書き癖」である。主人公は何かを知っているが、それを読者にストレートには伝えずに、記憶の断片というヒントだけをばら撒いて、話を進めてゆく。読者はその断片的なヒントから、ひとつの仮説を立てて読み進めていくのだが、実際にはその仮説が大間違いで、そこに大きな落差を作り出す、というのがこの作者のよく使う手である。
「ラットマン」では、物語の視点を一人物に固定しながら、前半にはその人物の逸話を詳しく語り出すかたちで読者の視点をその人物にロックさせ、「ひとつの仮説」に向けて読者をミスリードしていく、という構成が際だっていた譯ですが、本作では上にも述べた通り、物語は二つの家族のパートに分かれていて、事件を眺める「視点」も複數の登場人物へと振り分けられています。
で、自分が読んでいたときの感覚を述べてみますと、そうした「視点」の「分散」の構成が今回は「事件の真相」を眺める上で複數の可能性を考えてしまう、――という「隙」を生み出すことになりました。道尾ミステリにおける誤導の持ち味とはかなりの強度を伴った「ひとつの仮説」に読者を縛ってしまうところなのですけど、本作の場合、いうなれば多視点という「隙」を突くかたちで、自分は物語を読み進めていく過程で件の事件に関しては樣々な可能性を「推理」していました。
その一方で、道尾ミステリといえば、「ひとつの仮説」を提示してそれが罠であることはこちらも判っているわけですから、頭のなかに思い浮かんでいる「樣々な仮説」の方向に意識を持っていこうとするものの、その巧みに提示された「ひとつの仮説」にどうしても引きずられてしまう。そうした心の葛藤が市川氏のいわれる「イライラ」を生み出したのでは、……と感じた次第です。
というかんじで思い返すと、新たな創作を意識しながらミステリを読んでしまうという性の持ち主である実作者ほど、こうした道尾氏の「書き癖」に対する「イライラ」をより感じてしまうのではないか、という気もします。「自分だったらここで伏線を張ってこうするだろうなア」とか「ここでアレを隱しているんだから、眞相はこうじゃないノ」なんてことを色々と考えながらも、その「ひとつの仮説」の強度があまりに激しいために実際に小説を読み進めている意識はどうしてもそちらの方へと引きずられてしまう。その結果生み出された葛藤が件の「イライラ」ではないのかな、と――そんな気がするのですがいかがでしょう。
それ以外にも連城ミステリと道尾ミステリにおける「反転」の仕掛けの個性についても気がついたところがあったりするのですけど、何だかこれまた話し出すとえらく長くなりそうなので、また時間がある時にでもまとめてみたいと思います。
二つの家族のパートによって複數登場人物の視点に誤導の仕掛けを分散させながら、最後にその視点の重なりが事件の眞の構図を浮かび上がらせるという道尾ミステリならではの結構によって生み出された本作は「シャドウ」「ラットマン」にも通じる風格を持った一作ながら、またそれとも異なる個性を主張する逸品です。道尾ファンであれば文句なしに「買い」なんですけど、個人的には辻村女史や折原氏のファンが本作にどのような感想を持たれるのか興味のあるところです。