傑作「人間処刑台」がリリースされてからまだホンの少ししか間が空いていないのにもう新作? と吃驚してしまったのですけども、今回はタイトルからもおおよそイメージ出來る通り、主人公の男が少女を軟禁してもっぱら口虐に勤しみながらカタストロフへと向かっていく、――というお話では「ありません」。
そのあたり、タイトルを見ただけでは誤解してしまうのですけど、実際はマカオでカジノに興じる主人公の男の前にチベット娘の娼婦が現れ、男は少女を買うもののその夜はエッチもせずに金だけ渡して歸してしまう、しかしどうにもその少女のことが気になって仕方がない男はマカオに滞在している間、ずっと少女を「買う」ことにするのだが、……という話。
なので、「買う」ことはあっては、タイトルにある通り「飼う」というわけではないゆえ、そのあたり、ややタイトルに偽りありかな、などと考えてしまうのですけども、勿論そこには理由があって、物語の終わりがそのタイトルに絡めてシッカリと「絶望的なハッピーエンド」へと繋がっていくところは流石です。
とはいえ、本編のほとんどは、主人公の男が少女とうまいモン喰って、買い物して、スパでのんびりして、プールで泳いで、カジノで遊んで、「あっ、あっ……コオロギさん……あっ、うっ……ああっ」の繰り返しという結構でありますから、確かに娼婦である少女が辛い過去を思い出すときには、「いやっ! やめてっ! お願いっ!」「ああっ!……いやーっ!」「もうダメ……死んじゃう……お願い……許して……お願い……お願い……」と、鞭打ち、輪姦、肛虐、飲尿とSMのフルコースが展開されるところは、大石小説にエロスを求めるキワモノマニアとしては十分にそそられるものの、何しろイジめられるのが少女というあたりが結構、讀者を選ぶのではないかな、という気もします。
ロリ系に興味のない御仁としては正直、こうしたエロもちょっとアレで、確かに「ああっ」も「あーっ」「いやっ!」「お願いっ!」といつもの大石ワールドならではの台詞もシッカリと鏤められてはいるとはいえ、輪姦、鞭打ち、飲尿とエロスのバリエーションを広げながら、どうにもそのあたりの技巧がマンネリに感じられる気がなきにしもあらず、……と、普段であればその絶妙なマンネリズムが大石小説のひとつの魅力であった筈なのに、何故か本作においてはそうしたエロスの定番が心に響かなかったのは、ヤられているのがチベットの少女だからか、或いはどうにもエロスの分量よりも、四十過ぎの中年男と娘のマッタリしたデート・シーンが物語の大半を占めているゆえか、そのあたりは判然としないものの、とりあえず本作では定番をトレースした大石エロスとはいえ、個人の嗜好が試されるところが異色作。
マンネリといえば、今回は「人間処刑台」の後半シーンにも登場した「大小」バカラの場面が冒頭から登場するのですけど、「パカン、パカン、パカン」という気の抜けたオノマトペとともに、「人間処刑台」でのあのシーンを流用しているところに「大石センセ、スランプ時にものした作品とはいえ、手、拔きすぎ」と苦笑してしまった自分はちょっとアレ(爆)。
寧ろ本作の場合、そうしたエロスや定番のリフレインよりも、主人公の人物造詣に注目した讀みが個人的にはオススメでありまして、この四十過ぎの中年男の主人公、離婚歴アリの小説家でありまして、ノベライズ本が話題となって作家としての軌道に乗ったところや、住まいが湘南であるところなど、どうにも大石センセ自身を彷彿とさせる、……というか、美人な奧さんとの離婚歴アリというところ以外は殆どセンセの分身でないの、と思わせるほど。サイトのエッセイなどで讀んだことのある話を作中で語られるエピソードと重ね合わせながら、「もしかしてセンセもこの主人公みたいに高校受験も失敗、大学受験も失敗、就職試験も失敗みたいな負け組だったときもあったのかナ」とか、樣々な妄想にグフグフしながらの讀みが吉、でしょう。
ちなみにジャケ帶の惹句は、
私を二度とあの地獄に
帰さないで
異端の純愛を描く究極の恋愛小説
貪欲に癒しを求めてやまないスイーツ娘が大好物の「純愛」という言葉を使っての惹句はなるほど、「アンダー・ユア・ベット」のような「異端の純愛」の風格を持つ大石氏の作品においては的確な表現かと頷ける一方、「純愛」といっても本作の場合、ノッケから、
彼の性器を深く口に含み、リズミカルに顏を前後させている少女の、その肉体を、その精神を、その人生を、そのすべてを彼は欲した。
なんて文章が開始早々、十頁にも滿たないうちに登場するゆえ、「異端」ならぬフツーの純愛をご所望の方はご注意を、ということで。