昭和三十八年にノベルズでリリースされ、今回が初文庫化ということで、当たり前なのですけど未讀でした。何だか不思議な小説で、その事件の様態の特殊性ゆえに特異な構造を持った物語で、それゆえ人によってどうにもとりとめのない、中途半端な印象を持たれてしまうかもしれません。これについては後述します。
物語は、考古学者のボーイが旅先で仕事を終えて昔の友達宅でマッタリしていると、かつてのボーイの戀人で行方知れずとなっていた女が自殺をはかった、との電報を受け取ります。慌てて病院に駆けつけるものの、その女はマッタクの人違いで呆気にとられていると、何でも自分と同じように自殺を図った女を訪ねてきた謎女がいるという。果たして謎女の存在は、そして昔の戀人の名前を騙って自殺をはかった女の正体は、――という話。
冒頭に提示される謎としては、服毒自殺をはかった女の正体というのがあるのですけど、物語の力点はこの後、自分と同じようにこの女を訪ねてきた謎女の存在へとシフトしていきます。昔の戀人といってもどうやらこの主人公は奥手というか何というか、デートの時に手を握っただけというモジモジぶりで、そんな「いい人」っぷりから妙に女にモテまくるところがちょっとアレ。
謎女はアッサリと身元を明かしてみせるものの、中盤まで彼女と昔の戀人との關係は判然としないし、しきりにモーションをかけてくるわと、その意図を計りかねるところが大きな謎ながら、ボーイとしてはやはり気に掛かるのは昔の戀人は今、何処で何をしているのかというところ。やがて主人公の前に現れた刑事が昔の戀人家族の犯罪事情を改行なしの長文でイッキに説明してくれると、ボーイは考古学の仕事もそっちのけで昔の戀人の行方と謎女を追いかける探偵ゴッコにのめり込んでしまい……。
これが懐かし風味の社会派推理の結構であれば、自殺女の出自や何故彼女は昔の戀人の名前を騙って死んでいたのか、というフウに冒頭の事件に絡めた謎を物語の中核に据えて話を進めていく筈なのですけど、本作の前半では謎女の存在ばかりが大きく取り上げられいるところがやや異色。
これでは流石に引きとしては弱いと判断したのか、中盤からは刑事を登場させて、謎女と昔の戀人の家族には譯アリの事情があることを語らせるとともに、過去の事件を交えた謎も添えながら物語を進めていくのですけど、それらの事件がすべて刑事の口からイッキに説明されてしまうところにはややぎこちなさも感じさせます。
しかし不思議とそれでも不満を感じずにすらすらと讀めてしまうのは、女心こそが最大の謎、というあたりをモジモジの主人公の内面描写に託して描き出しているからでありまして、確かにコロシもあるし自殺の女の出自も含めてミステリ的な謎の装飾があるとはいえ、描写の比重は寧ろそういった女心の不可解さに重心をおいているという結構にあるがゆえかもしれません。
どうにも自分に気があるように思わせぶりな態度を見せながらも、軽いキスだけでその先はお預けだし、昔の戀人のことでこちらが訪ねていけば留守だったり、さらには手がかりを見つけてこちらが旅に出ればまるで先回りでもするかのように謎女もその場所に訪れていたりと、とにかく謎女の振る舞いに翻弄されてしまう主人公ながら、やがて事件の闇が明かされていくにつれ、彼女への思いに變化が見られていくところには文学的香気も感じられ、――というか、ただ単に女心を知らないモジモジ君であるがゆえの展開のようにも思えてしまうところがちょっとアレながら、後半は過去の事件との關わりから犯人の奸計が明らかにされていくという展開です。
讀んでいる間は、謎女や犯人も含めた登場人物たちの、妙に距離をおいた描き方に奇妙な違和感を憶えていたのですけど、事件の構図が見えてくるにつれこの作品の構造そのもののぎこちなさの所以も判明してくるところが個人的には面白く、解説で細谷氏が述べている通りに、「詳しくは書かないが、犯人側の計画が崩れることにより、結果的に謎が生まれるという構成に、作者の創意工夫が込められている」ところに注目でしょう。
すべてが犯人の企圖の通りに進んでいれば、そもそも自殺女の謎というものも生まれることなく、主人公と謎女がこの事件に關わることも決してなかった筈で、本来であればそうした「事件」という物語の外枠にいるべきだった人物を物語の中核に据えてみせた結構の結果として、犯人そのものがまったく添え物程度にしか描かれなくなってしまったという逆転現象が讀み進めている間に感じられた違和感の正体のような気がします。
「犯人側の計画が崩れることにより、結果的に謎が生まれる」というところを逆に考えて、これを犯人の側から描き出したとすると、本作はおそらく倒叙もののような構成になる筈で、本作では倒叙を定型として語られるべき事件の結構をいわば陰画として描き出した構造を持っているというふうに考えることも出來るのではないでしょうか。
犯人の奸計通りに進んでいれば決してこの物語に關わることのなかった主人公や謎女の視點から事件が語られるという反轉した結構ゆえ、必然的に犯人の奸計を主にした事件は物語の裏側に押しやられ、陰画であるがゆえにはっきりとは見えない人間關係を外側から描き出すという特異な構成になったのではないか、と思うのですが如何でしょう。
それゆえに最後に明らかにされる犯人の実像もどうにも判然とせず、ミステリ小説としてはそれが瑕疵に感じられてしまうものの、これもまた本作の結構を鑑みれば宿命的、――というと大袈裟ですが、致し方ないのカモ、という気がするとともに、事件の様態が把握出來て初めて讀み進めている間に感じられた様々なモヤモヤには納得できた次第です。
繰り返しになりますが、過去のコロシや他殺とおぼしき自殺など、ミステリでは中心の謎として据えられるべきものが上に述べたような特異な構成の結果反轉を見せているがゆえ、普通のミステリとして讀み進めていくとやや不満を感じてしまうかもしれません。ごくごくフツーに受け止めればこれらは総て欠点と見なされてしまうかもしれないのですけど、本格讀みとしては、「犯人側の計画が崩れることにより、結果的に謎が生まれる」という本作の特異な構造に着目した「讀み」をオススメしたいと思います。