「四神金赤館銀青館不可能殺人」に「留美のために」という異形の本格二冊によって今年も異彩を放っていたクラニーの最新作。ジャケ帯の裏に曰く「”怪奇小説家=倉阪鬼一郎”のイメージを鮮やかに覆す、衝撃のマラソン・ミステリー!!」とあるのですけど、ミステリーといってもそこはクラニーですから、本作もまたその異能ぶりが遺憾なく発揮された一冊に仕上がっています。
湘南を舞台とした物語は、「湘南国際マラソン」で完走を目指すオバサン家族と、もう一つ別家族の娘っ子の二人を軸に、レースの二ヶ月前からマラソンのゴールまでが描かれていきます。これといった事件も起こらず、オバサン家族の軽妙な會話や、娘っ子の父親と「湘南ランナーズ・ハイ」というマラソン同好会のメンバーたちの飄々としたおしゃべりも交えて淡々と進められるものですから、これがミステリーなの?なんて面食らってしまうものの、レースも第三関門にさしかかったあたりから、この淡々と進められていた物語の「仕掛け」が明らかにされていきます。
事件が存在せず、仕掛けだけがある、という意味では「イニシエーション・ラブ」を彷彿とさせるものの、あそこまで強度な驚きを物語の中心に据えたものではありません。人情ものの傑作短編集「下町の迷宮、昭和の幻」や「泪坂」のような市井の人々を描きながらそこにシッカリと伏線を軸にした仕掛けを施してある逸品です。
特に注目するべきは、やはり「四神金赤館銀青館不可能殺人」と「留美のために」の二作で見事に開花した倉阪氏の伏線魂が炸裂するところでありまして、人情ものという風格を尊重したゆえか、仕掛けの開示の技法そのものは上に述べた二作に比較すれば穏やかながら、讀み返して始めて、作中のさまざまな違和感が登場人物たちの心の機微を巧みに描いていたものであったことが判明するという技法が素晴らしい。なので、ジャケ裏に「笑って、泣いて、驚いて、そして、もう一度読みたくなる傑作誕生!」とある通り、後半からたたみかけるように明らかにされていく「真相」を知ったあと、すぐさま頁を戻りつつ再讀すればさらに倉阪氏の細やかな伏線の技巧を堪能できるかと思います。
以下は、ややネタバレを含みますので、先入観なく本作に取りかかりたい方はスルーしてください。
本作で見事だと思ったのは、普通の人情噺を装いつつ、倉阪氏らしく二つの家族を併置しながら描いていくというその結構で、そこに「湘南ランナーズ・ハイ」のメンバーたちの會話を交えながら物語を進めていくところでありまして、違和感という點では、軽妙な會話に重きを置いた他のパートとは対照的に、内面描写をじっくりと描き出した娘っ子の場面はこのテのミステリを読み慣れた讀者には恐らく違和感がありまくりではないかと推察されるものの、この違和感を「湘南ランナーズ・ハイ」のメンバーたちの惚けた會話の場面が中和させているところが秀逸です。
実をいうと最後に明らかにされる真相はそのあからさまな違和感ゆえにだいたいの予想はついていたのですけど、この真相が明らかにされた後にあらためて讀み返すことで、登場人物たちの心情とその真意が判然とするところは最高です。
例えば「スタート~第一関門」の中で(89p)、出発直前に海人が夏乃を一瞥した刹那に「リボンに視線が注がれ、微妙な間があった」という描写の見事さ。何故ここで「微妙な間があったのか」というあたりは、はじめて讀んだ時には深く考えずに通り過ぎてしまうものの、真相が明らかにされた後にこの箇所を読み返すと、このときの海人の夏乃に対する気持ちが心に迫ります。
そして、それだからこそ、その後の海人の台詞、「そちらも、どなたかと走られるんですか?」という問いに「ちょっと逡巡してから」答えてみせる夏乃の態度にしても、何故ここで「逡巡してみせた」のかというところも、上の「微妙な間」と同様に、真相を知ってから讀み返して始めてその真意が分かるという伏線の美しさ。
さらにこのシーンでさりげなく描かれている真意を隠蔽するためのミスディレクションとして、その前に描かれているのが、レース前日に夏乃が受付をしに行くシーン(55p)で、ここでソーシャルネットワーキングの仲間が同じ色のリボンをつけて参加するところを描くことによって、夏乃が当日につけているリボンの本当の意味合いを誤誘導する仕掛けとなっています。
このリボンについては、実を言うと二重の仕掛けが凝らされていて、リボンの色が明かされた刹那に夏乃の家族のある事実が明かされます。しかしこの事実は、夏乃の父に対して大方のミステリ讀者が抱いしまうある先入観を誤誘導する機能を果たしているところもまた見事。
本作の中で唯一あからさまなかたちで「謎」として提示されているのが、夏乃がハーフパンツのポケットにしまったおいたものは何か、というものなのですけど、この謎の周囲に凝らされた様々な伏線と、その仕掛けに思い至り、その後、さりげない描写の奥の奥に作者が描いてみせた登場人物たちの心の機微までを理解できるのは、やはりミステリとして「讀み」を行える讀者だけかもしれません。その意味ではやはり敢えて「マラソン・ミステリー」というふうに「ミステリー」という言葉を添えて、ミステリの讀者に本作を手にとってもらう方がこの一冊にとっては幸福なのカモという気持ちの一方で、果たしてミステリという形式の中で物語を牽引していく「事件」が不在であるという特異な結構と、謎の様態が伏線の回収の瞬間に立ち現れるという様式は、ごくごく一般のミステリ讀者に受け入れられるのかどうか、――このあたりを心配してしまいます。
とはいえ、「四神金赤館銀青館不可能殺人」の感想では、「一度コード型本格から離れて、「泪坂」みたいな人情噺に本作の技法と技巧を投入した場合、どんな傑作が生まれるのか」なんてことを書いてしまった自分としては、まさにクラニーに期待していた風格の一冊といえる譯で、個人的には本作を大いに支持したいと思います。倉阪ミステリの風格のひとつである伏線の美学を堪能したい方に、オススメでしょう。