「赫い月照」について何か書こうと思っていたのですけど、色々と調べていたら、何とこの作品、第4回本格ミステリ大賞の候補にあがっていたんですねえ。で、この時の選評がなかなか面白い。特に綾辻行人の以下のコメントは素晴らしすぎます。
「……夢野久作や小栗虫太郎へのオマージュも垣間見えるこの作品、僕はある意味、現代の『虚無への供物』としても読むことができた。」
嗚呼!ここにもこの作品に「虚無への供物」の影を見た人がいましたか!と心を強くしたのでありました。しかしその一方で「つまらん」「駄目駄目」みたいな否定的な意見もあって、これはこれで興味深い。まあ、このあたりはもう少し自分の意見をまとめてから書いてみようと思います。
で、今日とりあげるのは有栖川有栖の「スイス時計の謎」。何でこれを、という理由についてはですね、上の本格ミステリ大賞の候補のリストを見ていたら、「赫い月照」とともに、この作品が候補にあがっていて、評価している人が結構いたからです。この第四回に大賞を受賞したのは「葉桜の季節に君を想うということ」で、二位が本作です。つまり「赫い月照」より評価している人が多かったわけです。「葉桜の季節に君を想うということ」は讀んでいたのですけど、「スイス時計」は未讀だったので、よっしゃ、どれだけ凄いか見てやろうじゃないのというかんじで挑戦した次第です。
この選評に目を通すに、ほとんどの人がタイトルにもなっている「スイス時計の謎」を評価している。というわけで、ここはこの作品のみに絞って書いてみようと思う譯ですけど、……うーん、まず最初に自分の意見を簡單に述べると、「そ、そんなに凄いんですかあ?」と。いや、確かに精緻な論理の冴えは素晴らしいのですけど、その切れ味はというと、最近夢中になっている氷川透の方が優れていると思うんですけど如何でしょう。まあ氷川透の場合、短編じゃないので、簡單に比較することも出来ないとは思うのですけど。
さて、以下は多分にネタバレを含んでいるので未讀の人は讀まない方が吉。
まず火村の推理で、ある人物を容疑者からふるい落とす時に、「イニシャルなしの自分の時計が殺人現場で壊れた。さあどうする? 彼の場合パニックになる必要がない。壊れた時計と村越さんの時計を取り替えればいいんだ」といっているんですけど、犯人が自分の持ち物をおいていくってことがありますかねえ?
だってこの犯人は、自分の時計の硝子が壊れたら、掃除機まで取り出してそいつを取り除こうとしたほどの神経質な輩ですよ。だったら自分の持ち物を殘しておけば、そこから體液なり何なりが採種される可能性があることに考えが及ぶのは当然でしょう。だったら、犯人が自分の時計と被害者の時計をすり替える、という假定自體がそもそもありえないのでは、と考える譯です。
時計が壊れたのであれば、同總会にしていく必要はなかった譯で、それを火村探偵は「犯人は自分の時計に異状があったことを隠すわけにはいかず、……「あの時、(時計を)してこなかった」という事実は消せない」ことを回避するために時計をすりかえたと主張しているのだけども、遺留品である自分の時計を現場に殘していく方が遙かにリスクが高い、と思うのですが如何? 時計をしてこなかった理由なんていくらでもデッチあげることが出來ると思うのですけど。
というかんじで、ちょっとこのロジック、というか消去法はいただけないなあ、と感じてしまいました。でも、プロの方々は選評を讀む限り、こういうことには言及しないで、ロジックが素晴らしいとこの作品を絶讃しているのですけど、……もしかして自分って何か決定的に勘違いしていますかね。「犯人が決定的ともいえる遺留品を殘していっても、この場合、絶對に安全である。そこから體液や指紋などの採取によって犯人が特定されることはありえない」ということは証明されていましたっけ。