清水一行というとどうにも企業小説みたいな印象が強く、本格という視點から讀まれることはあまりないカモという氣がするのですけど、少なくとも日本推理作家協会賞を受賞した本作は大違いで、犯人が搜査陣を欺く仕掛けは勿論のこと、推理によって犯人を炙り出していくプロファイリングの手法など、本格ミステリファンが讀んでも愉しめる名作だと思います。
物語は、いきなり新幹線のトイレに仕掛けられた爆弾が發見されて大騒ぎというシーンで讀者のド胆を拔き、新幹線公害の解決をはかる姿勢を見せないと開業十周年記念日には新幹線を転覆させるという犯人の予告に政府官邸は天手古舞い、警察は秀才刑事を本部長を据えて犯人との対決を開始するのだが、……というお話です。
とにかく畳みかけるように犯人が樣々な手段を使って新幹線を止めてみせるところが本作最大の見所ではある譯ですけど、警察のシーンと犯人のシーンとを交錯させながら、そこに或る女性の視點を織り込むことによって、義憤にかられて犯罪を繰り返していくこの犯人の姿を描き出しているところが秀逸です。
そしてこの女性の視點の中に、犯人のアリバイトリックが仕掛けられているところも巧みで、ヨーロッパを周遊している犯人はいかにしてこの犯行を行っているのかというミステリ的謎を添えながら、犯人の犯行を倒叙形式で描きつつ、中盤まで物語を引っ張っていく構成もまた見事。
さらにこの仕掛けが明らかにされるまでは、犯人のシーンではその名前を仄めかしていたに過ぎないところへ、このトリックのネタが明かされてからは犯人の固有名詞をシッカリと掲げてその後の犯行を描き出していくという切り換えも見事な効果を上げていて、後半は當に犯人と秀才本部長の二人に大きく感情移入をしながらその勝敗に手に汗を握る展開へと雪崩れ込んでいきます。
また推理という側面から見ると、犯罪科學研究所の設立にも尽力したという秀才本部長と教授が犯人像をプロファイリングしていくところも本作の見所の一つでありまして、特にその物証や犯行方法などから犯人の心理や性格を炙り出していく推理も實直です。
トリックの伏線という點に着目すると、中盤の大きな山場のひとつ、送受信機を使って新幹線にATCを送って新幹線を止めるというシーンの前には、ATCの事故をシッカリと取り上げ、これを伏線として機能させている構成も叉うまい。
開業記念日に新幹線を転覆させるというタイムリミットだけでも物語を大きく牽引していくことが出來るのに、本作では、社会派ミステリとしての大きな主題である新幹線公害に對する主張に説得力を持たせるが為、警察のプロファイリングによる推理や、私生活を知っている女の場面など樣々な視點から犯人の人物像を描き出していきます。
犯人像の「推理」という趣向と、女のパートに添えられたアリバイトリックという「仕掛け」を前半部に投入することによって明確な犯人像を讀者の前に提示しつつ、そのアリバイトリックが中盤、警察の捜査と推理によって明らかにされるや、犯人が固有名詞を伴って讀者の前にハッキリと姿を現すという切り換え、――勿論、本作において「人間を描く」というところに、作者の文章力が大きな効果を上げているのは勿論なのですけど、個人的にはこういった「推理」と「トリック」という、いうなれば本格ミステリが生來的に持っている技法において、作者は明確な人物像を描き出しているところに注目したいと思うのですが如何でしょう。
というのも、ただ「人物の書き分けが悪い」とか「人間が描けていない」とかいう批判はある意味、その作品を貶めるのには最も簡単な台詞でありまして、新本格ミステリの黎明期においてもそういった批判がなされたというのは皆さんご存じの通りでありますが、ここで「人物描寫なんか糞喰らえ」とばかりに「トリックこそが本格の命なんだよ。頭のお堅いロートルの本格マニアは黙ってろ」と、その安直な批判に眞っ正面から對峙せずに、それらの批判を交わしてしまったところに問題があったのではないかなア、なんてボンクラのド素人は學生時代の当時を回顧しつつ、そんなことを考えてしまうのでありました。
確かにそもそもが上にも述べた通り、「人物の書き分けが悪い」とか「人間が描けていない」なんて言葉は頭の惡いド素人がプチブログの感想欄に書き散らすレベルのものであって、新本格に對する批判を通過してきた本格ミステリのプロが今、口にするべきではないのでは、と思う譯です。
新本格に對する当時の批判があったからこそ、今、本格ミステリのプロが「人物の書き分けが悪い」という評価を、本格ミステリの作品に對して行うのであれば、では貴殿にとってはそもそも人間を描き、人物の書き分けを行うというのはどういうことなのか、そして本格ミステリにおいてどのような技法或いは技巧においてそれを行うべきなのか、というところをハッキリさせる必要があるのではないでしょうか。
これが例えば、本格ミステリ作品の選評会選考会でこういう発言がなされた場合、少なくともプロの本格ミステリ作家であれば、そこで上にも書いたようなところを明らかにしてもらいたいと思うし、またその批判に應える形でその作品をいかようにすればその批判を回避できるのか、とか、或いは何故敢えてその作者は技法や技巧を用いずに「人物の書き分け」を行わなかったのか、――そのあたりを汲み取りながら作品の評価をしてもらいたいなア、なんて期待してしまうのですけど、やはりこんなことを大眞面目に考えてしまうのはボンクラのド素人だけで、プロ作家にしてみれば、技法も技巧も知ったこっちゃねえ人物描写には文章力が全てとばかりに、そういうコ難しいことは評論家とかに任せておけばいい、ということなんでしょうか。
しかし完成された作品と對峙しつつ、本格ミステリを「讀み解く」為に樣々な技法技巧を驅使してみせる批評家評論家と、作品をつくりあげていく過程においてその作品を制御する技法に巧みな創作者では、自ずと「人間を描く」ところの力點も異なってくるだろうし、自分のようなボンクラの一讀者にしてみれば、寧ろ両者の差異の中において、本格ミステリの中で「人間を描く」とは――というところの深奧を見極めたいという気持が強いのですけど、どうにもこのあたりの話をプロの創作者に期待すると、ミステリの描き方とかプロットの組みたてかたとか、ワナビー向けのプチ講義でお茶を濁してハイオシマイ、となってしまうところがもどかしい。
社会派ミステリの意匠を纏っていても、本作には「推理」や「トリック」といった技法技巧を用いて「人間を描く」にはどうすれば良いのか、というところで本格ミステリ的にも學ぶところが多いのでは、というのが本エントリの主張だったりするのですけど、やはり驚天動地空前絶後の密室トリックがないような非本格ミステリ作品など讀む必要ナシ、ということになってしまうのでしょうか。だとしたら勿体ないなア、という氣がしてしまうのでありました。
本格ミステリにおいて「人間を描く」とはどういうことなのか、に関する問題提起、面白く読ませていただきました。以下に、私の思うところを記させていただきます。
> 完成された作品と對峙しつつ、本格ミステリを「讀み解く」為に樣々な技法技巧を驅使してみせる批評家評論家と、作品をつくりあげていく過程においてその作品を制御する技法に巧みな創作者では、自ずと「人間を描く」ところの力點も異なってくるだろう
評論家の立場から言わせてもらうと、創作者の立場にまで配慮できないのは、その批評家が無能だからだと思います。
簡単に申しますと、一般に「創作家」と言うのは、本能で書きます。だから、本能で「人間を描く(描ける)」し、その本能が無くて「人間を描けない」創作家もいる。もちろん、なかには批評家以上に「理知的・論理的」に「人間を描く」創作家もいますが、それはその人が「意識的」だと言うだけであり、その人が実際に「人間を描く」ことができるのだとしたら、その人には「人間を描く」本能が備わっているということです。つまり、並み以上の「表現力」というのは「アプリオリ(先天的)」なものだということです。残念ながら、それが無ければ、努力は報われません。これが「芸術」の残酷さというものなのです。
ですから、評論家は「結果」を評価することしかできません。つまり「描けているか、描けていないか」の判断しかできず、「こうすれば描ける」というのは、嘘か、思い違いです(まあ、こうすればマシになるという程度のことなら言えるでしょうが)。
一口に「人間を描く」と言っても、そこにはいろんな「意味」や「レベル」があるということを、少なくとも批評家を名乗る者は、自明の前提として弁えていなければなりません。
これも分かりやすく言いますと、「人間が描けている」という時、それは大きく、
(1) 登場人物の描き分けができている(=「性格(キャラクター)」描写ができている)。
(2) 登場人物の「人間性」が描き出せている(=剔抉されている)。
の2つに分類できるでしょう。
本格ミステリを含む、「娯楽性」を主眼とする文学(エンターティンメント)に必要な「人間描写」というのは(1)のことであり、(2)は「人間探究」という「文学性」において求められるもので、自ずと、主に「純文学」などの作品に求められるものです。
つまり、『本格ミステリを含む、「娯楽性」を主眼とする文学(エンターティンメント)』においては、そのジャンルが求める「娯楽性」に資するために、(1)が求められる。例えば、登場人物の描き分けできていないと「こいつ、さっきの推理合戦の時に、どの意見を言ってた奴だっけ?」ということになって、本筋とは違うところで、読者の円滑な読解・推理の妨げになってしまいます。だから、ごく短い「推理パズル」のような作品であれば、記号的に登場人物A・B・Cで良いでしょうが、ある程度の長さの作品では、(1)の「描き分け(色分け)」が「実用性」の問題として求められるんですね。
で、これを言い換えれば、本格ミステリでは、最低限そうした「描き分け」さえできていれば、人物描写が所謂「キャラ立ち」のレベルにまで到っていなくても良いし、無論(2)のレベルも必要ない。ただ、うまく組み込めるのであれば、そこまで組み込むのを拒む理由は無い、ということなんです。
ですから、これをもう一度ひっくり返していうと、『本格ミステリを含む、「娯楽性」を主眼とする文学(エンターティンメント)』に(2)を求めるのは、筋違いなのです。それは「有るに越したことはない」ものであって「なければならない」ものではないんですね。
したがって、本格ミステリの公募作品なんかに対して言われる「人間が描けていない」という評価は、通常は(1)の意味においてであり、「最低限の区別がつかない(ために読解に支障を来たしている)」という意味で言われていると理解すれば良いでしょう。しかし、選考委員の中には「頭の悪い文学かぶれ」もいますから、たまに本気で(2)を求めると言うか、(1)と(2)の区別がつかないままに、両者を混同する形で(2)まで求めてしまう人もいるんですね。また、さらに言うと、応募者の方にも同程度の人は多いですから、(1)を求めているだけなのに(2)を求められたと勘違いして「私は人間が書きたいのではない。本格ミステリは人間を描くための文学ジャンルではないのだ」なんて頓珍漢な反発を、しばしば示してしまうんです。
つまり、創作家と批評家、公募作品作者と選考委員の間で、「人間を描く」とはどういうことなのかという、ここに示した程度の(最低限の)共通了解があれば、ミステリ界で半世紀以上にもわたって繰り広げられてきた「人間を描く必要はあるのか?」といった、お粗末な議論はしなくて済むんです。でも、この程度のことを明確にし得なかったのが、ミステリ評論家と呼ばれる三流評論家たちなのだとも言えるでしょう。かつて笠井潔が「ミステリ界に、まともな評論の書ける評論家はいない」と言って批判したのも、決して間違いではなかったのです(――したがって私は、本能の人たるべき創作家には、ここまでの理知的認識は求めません。彼らは理知的ではなくても、ひとまず現に描ければ良いからです)。
なお、以上の「人間を描く、とは何か」の問題について、いくつか注釈を付しておきますと、まず「(2)は、(1)の単純な発展進化形ではない」ということ。これは『離れた家 山沢晴雄傑作集』の解説で、巽昌章が、
『そうした運命の構図をめぐる物語には、もし運命があらかじめ決まっているのなら、人間に与えられた時間とは一体何なのか、という懐疑がつきまとう。(…)実をいえば、これは論理的な構図の提示を身上とする本格推理小説そのものが身に負っている問いでもあるのだが、論理のスペシャリストともいうべき山沢の小説にあらわれるとき、その響きは一層重い。』
と書いたことと直接つながります。つまり(2)のレベルで「人間を(深く)描く」と、その人間は「変化・自己矛盾する人間存在」となって「論理パズルとしての本格ミステリのロジック(形式論理)」を破綻させかねないものになる、ということです。つまり、(1)と(2)の間には「質的断絶」がある、ということですね。
もうひとつは、私がここで言う『「性格(キャラクター)」描写ができている』と「キャラ立ち」とは別ものである、ということ。これは東浩紀(『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)の議論に準じたものであり、簡単に言うと「性格描写ができている」というのは「物語の背景・文脈にそって適切に、個々の登場人物が生き生きと描かれている」ということであり「キャラ立ち」とは「物語の背景・文脈を抜きにして、作中人物が、キャラとして一人立ち(歩き)している」状態を指します。これは「似て非なるもの」なのです。
以上、長々と失礼しました。ある程度まとまった意見を書こうとすると、こうなってしまいます。でも、いつも「うちの掲示板に書きましたので、ご参照ください」では、宣伝に来ているようで嫌らしいので、今回はこちらでがっつり書かせていただきました。ご容赦下さい。
アレクセイさん、こんにちは。同時に鋭い御指摘とコメント、ありがとうございます。
>> (――したがって私は、本能の人たるべき創作家には、ここまでの理知的認識は求めません。彼らは理知的ではなくても、ひとまず現に描ければ良いからです)
嗚呼。上に書かれている「なかには批評家以上に「理知的・論理的」に「人間を描く」創作家もいますが、それはその人が「意識的」だと言うだけであり、その人が実際に「人間を描く」ことができるのだとしたら、その人には「人間を描く」本能が備わっているということです」というところにも關連するのですが、自分は創作者に「理知的認識」を求めすぎているのでしょうね。
新本格の黎明期に「人間が描けていない」などと批判が向けられた際に、文句はいうけど結局そのあたりをスルーしてきた創作者に對するもどかしさもあって、何故、未だに新本格の創作者がこんなことを言っているのかというところで呆れてしまうのです。もっとももう少し冷静に考えると、創作者が「この作品には人間が書けていない」とかいう場合、彼の頭は創作者というよりは批判・批評を行う視點で発言をしているのかもしれません。
>> つまり(2)のレベルで「人間を(深く)描く」と、その人間は「変化・自己矛盾する人間存在」となって「論理パズルとしての本格ミステリのロジック(形式論理)」を破綻させかねないものになる、ということです。つまり、(1)と(2)の間には「質的断絶」がある、ということですね。
自分としては、當に本格ミステリにおける眞相の開示において「「知」がその極みのおいて見い出す「非知」」の瞬間を目の当たりにしたいという思いがありまして、そうなるとやはり(2)のところを求めてしまいます。ええ、勿論無理な注文なのは百も承知なのですけど(爆)。個人的にはこの山沢ミステリにおいて、アレクセイさんが「知恵の輪の極みに ―― 山沢晴雄をめぐって」の中で語られていた「「知」がその極みのおいて見い出す「非知」」を用いて、「この世を否定するこの世以上の価値」を今、本格ミステリにおいて体現させることは可能か、というあたりに非常に興味があったりするのですけど、このあたりを「反地上、反世界への意志」と絡めて、アレクセイさんが何か思索のヒントを示していただけると嬉しいなア、――と秘かに期待しています:-)。
> 自分は創作者に「理知的認識」を求めすぎているのでしょうね。
結局、誰だってそうなんですよ。私を含めてと言うか、むしろ私などはその最たるもので、「こんなこと言っても無駄だ」と思いつつも、それでも「どうして分かってくれないんだ」という思いを押さえきれずに、書いてしまう。そして、案の定、憎まれる。
また、そんなジレンマを強く感じているからこそ、一般論では「求めても無駄だ」なんてクールぶってしまうんです(笑)。
でも、そういう「無駄」と思える「過剰さ」がなければ、人間は限界には挑めないんだとも思います。だから、自己正当化のようになりますが、――「すべてよし」です(笑)。