これ、自分は文藝別册のKAWADE夢ブックとして最近リリースされた半村良のアレみたいなものだと思っていましたよ。内容の方は相當に充実した一册で、單行本未收録作品として小説を七編、さらには遺稿「怨」、詩「棘」を冒頭に配し、三浦しをん女史と本多正一氏との妄想對談や、戸川、東両氏の特別對談など、中井英夫の信奉者であればマストといえる内容に仕上がっています。
収録されている小説はいずれも掌編といえるものながら、個人的にツボだったのは、バカミスにしてエロミスとでもいうべき「人魚姫」で、作品解題に本多氏曰く「モチーフもトリック(?)もいまひとつと云わざるを得ない」とありながら、自分のようなキワモノマニアにとってはまさに珠玉の一編とでもいうべきハジケっぷり。
女學院を舞台に、學内ではお姫樣のような扱いを受けている女生徒が近くの農家の娘っ子を部屋に呼びこんでは、夜毎エロいことをしているという噂をききつけた女教師が、今夜こそはその現場を取り押さえてやろうと決意、果たして……という話。本多氏が解題の中で「トリック(?)」とはてなマークを添えてしまうネタというのが、當にキワモノマニア的にはグフグフ笑いがとまらないクダらなさで見せてくれます。
ほかには「少年とカメレオンの話」と題したエッセイも素晴らしく、冒頭から「鼻血がとまらない」「それにしても起きれば悪心・悪寒と嘔吐に襲われ、横になればなったで心房細動に惱まされて眠ることもかなわない」と自らの病にくじけそうになりつつも、讀者からの手紙は慰めになると續けます。
中井氏の讀者とあれば、時には熱狂的に過ぎて電波になってしまうというのも致し方なく、「二十三歳のデザイナーから、レポート用紙二十一枚に横書きでびっしりイラスト入りで書かれて」いるラブレターをもらいながらも流石にそういった人物には「迫力がありすぎて十日経ったいまも返事を書いていない」というのも當然至極。
しかし電波レターは軽くスルーしつつも、「某私立高の男子」で、もうすぐ十七歳になるという少年から、会いたいです、なんて手紙をもらえば、アンマリ期待もせずに「寝起きのままのだらしないガウン姿で」待っていると、その少年が「爽やかに背の高い少年」であったことが分かるや、一週間後にまた会いたいと電話をもらうと今度は「何かおろおろそわそわして」しまう中井氏の變轉ぶりにはちょっと笑ってしまいましたよ。
エッセイや論考はいずれも、期待通りというか、中井氏の素晴らしさを讃える内容がほとんどながら、そんな中、「あの頃――中井英夫覚書」と題した須永氏の回想は、中井氏の變人ぶり、偏屈ぶりを暴露しているところが面白い。
「その気質や挙措に如何しても馴染み難いものを覚え」て交際を経ってしまった経緯を語れば、その後も「中井さんが出没しさうな場所には近づかぬやう」にしていたりと、ここに書かれている中井氏のイメージと他の方との回想のギャップが最高で、さらには、この須永氏の回想の後に、越沼氏が「それにしても、怒った中井氏を私は知らない。じつに心優しい人だった」と書いているエッセイ「心優しき人」を配置している編集のセンスもまたナイス。
ほとんどの内容は當然ながら「虚無への供物」をテーマに据えているなか、喜国氏が「公園にて」を取り上げておりまして、この作品をセレクトしているセンスにまず脱帽、さらにはこの繪も右手に例のマントのおじさんを大きくフィーチャーしつつ、重要アイテムである砂時計をシッカリと添えれば、例の井戸を中心に配置して、件の少年を透かし繪のようにボンヤリと描いている構図も秀逸です。勿論少年は右手にはアレを持っているし、乳母車を取り卷くようにタイトルの「公園にて」を添えているところなど、この小説の内容を知っている人であれば、構図の素晴らしさに脱帽すること請け合いでしょう。
再録も多いとはいえ、中井ファンにはやはりマストの一册といえるのではないでしょうか。ただ「虚無への供物」を礼贊する多くのコラムと、冒頭の單行本未收録の小説の風格の違いに、「虚無への供物」しか知らない讀者は戸惑いを覚えてしまうやもしれません。このあたりは要注意、でしょうか。
いい本ですね。
わたしはサイトにも書きましたが、1度だけ中井さんに会ったことがあります。
新宿の「薔薇土」というバーで、持っていった『虚無への供物』の初版本にサインしてもらいました。その後手紙をもらい、その中で、乱歩は『影男』が一番好きで「あはれ哀しい物語です」と書かれていました。そして、「今、一番注目しているのは泡坂妻夫」ですとあり、恥ずかしながら、わたしはそれで初めて泡坂さんの名前を知りました。
『ゲッベルスの贈り物』を「おずおずと差し出す」という秘かな夢を持っていましたが、中井さんは出版の直前の「サロメの夜」に亡くなりました。
「薔薇土」は、この本の中にも須永氏の文章も含めて言及されていますね。当時は「薔薇土」に行けば普通に中井氏がいたのでしょうか。手紙までいただけるなんて羨ましいです。
やはり「人魚姫」に目をつけましたか。
あれは、さすがの私も(藤村の『破戒』で、牛松の父親が言い残したように)「あれだけは出すな!」と言った作品です。
まあ、自分は読んでいるからこそ「出さないでもかまわない」という気持ちもありましたが、なにしろ塔晶夫の『虚無への供物』後、第一作ですからねえ……(^-^;)。
アレクセイさん、コメントありがとうございます。
「人魚姫」は、普通の中井ファンだったら默して軽くスルー、なのでしょうけど、キワモノマニア的には、この作品のエロミス、バカミスの風格はまさに至宝、注目しない譯にはいきません。
時にアレクセイさんに中井英夫というと、そちらのサイトに掲載されている「中井英夫の「晩年」――「幻想文学者」という生」という文章が自分は大好きで、今でも中井英夫の作品を讀んだ後には偶に讀み返したりするのですけど、何なのでしょう、體裁はあくまで論考であって、本多氏の「彗星との日々」みたいに泣かせどころがある譯でもないのに、讀了した後には何故かジーンと來てしまいます。蓋し名文であることは勿論なのですけど、論考である以上にあの文章には何かが宿っているのではないかと思うのですが如何でしょう。
あの論考と、この本に掲載されている「ここなる彼方より」の、反世界に關する記述には頷けるところも多く、特に中井の反戰思想に關しては、何かピンと来ないなア、と前々から感じていたものですから、中井の「反(アンチ)」に絡めてその所以を説き起こしていくところは秀逸でした。
それと「ここなる彼方より」ですけど、「私がこの文章の校正ゲラを見ている歴史上の時間」から「私が生きているこの時代」「私が死んだ後の時代」と、あくまで「私」を中心に据えて論を興しつつ、最後の一文でさながら「ページ外の読者に向かって、あなたが犯人だって指さす」かのように、「そんな私たちの「今」を問い続けている」と「私たち」で纏めてみせたのは、やはり「虚無への供物」へのオマージュ――っていうのは深讀みのしすぎでしょうか:-)?
> 最後の一文でさながら「ページ外の読者に向かって、あなたが犯人だって指さす」かのように、「そんな私たちの「今」を問い続けている」と「私たち」で纏めてみせたのは、やはり「虚無への供物」へのオマージュ――っていうのは深讀みのしすぎでしょうか:-)?
正解です。
基本的に、意地悪なんですよ、私は。読者を「お見物衆」に祭り上げておくのが、嫌なんです(笑)。
最後に「中井英夫が見ているぞ」的になるのも「中井英夫はもう死人だから、害を被ることもなく、安心して誉められる」みたいなのは嫌だ、と思ったんですね。中井英夫を、きれいなだけの思い出の中に、封印したくはない。だから「タイムトラベラー中井英夫は、案外先回りしているかも知れないよ。だから、せいぜいお気をつけなさい」というニュアンスを込めたんです。
私は、中井英夫の賛美者であるよりも、すこしでもその志を継ぎたいと思ったんです。おこがましいことですが、健気ではあるでしょう?(笑)
> 正解です。
> 基本的に、意地悪なんですよ、私は。読者を「お見物衆」に祭り上げておくのが、嫌なんです(笑)。
成る程、やはりそうでしたか。讀んでいたら最後で作者がイキナリこちらを指さしてきたので吃驚してしまいましたよ:-)。
中井英夫の「志を継」ごうとするアレクセイさんの意志には本当に敬服します、というか自分のようなボンクラにはとても無理だよなア、と溜息が出てしまうのですけど(爆)、ミステリ作家の中でも自らの風格の中に中井英夫をリスペクトするもののほとんどが、「虚無への供物」における多重解決や見立て殺人、あるいは衒學趣味といった上辺だけのものにとどまり、中井の作品に込められた反世界、反地上への意志を繼ごうとするものではないところに大いなる不滿を感じてしまう自分としては、「中井英夫の「晩年」――「幻想文学者」という生」と「ここなる彼方より」に書かれている視点は非常に貴重で、寧ろ何故皆はここに着目出來ないのかと不思議に感じていた次第です。
もっとも、例えば本格理解「派系」作家の首領などは、「誰の文章も必ず、「時代」の懷から生み出されるもの」で、「「時代」から切れたところで書かれるものではない」(「ここなる彼方より」)というところも無視して、「論理の蜘蛛の巣の中で」を時評であって評論ではないなんて斷じてしまうようなテイタラクでありますから、「虚無への供物」という超弩級の作品が内包している時代性や社會性に気がつける筈もなく、さすればこの作品の根幹にある「反世界の意志」などは、……ってまたまた愚痴になりそうなのでこのくらいにしておきます(^^;)。