男節神話体系。
久しぶりに寿行センセの作品を取り上げるのにもちょっとした理由がありまして、本作のあとがきで氏が推理小説と自作の風格について述べているところを引用しつつ、少しばかり本格ミステリというものについて考えてみよう、と思った次第です。
物語はノッケから強引に進み、刑事がいきなり組織の人間に拉致られて目が醒めてみたら男が殺されている。で、そこから殺人の罪を着せられた主人公の逃亡生活が始まるのですけど、そこへうまい話があるから如何、と大金の報酬をチラつかせた組織の人間が急接近。無実の罪を着せられたのも、この連中が自分に危ない仕事を行わせる為だったのかと氣が付くものの、ここでアッサリと仕事を引き下がるようなヤワな主人公ではありません。
時に組織のコロシ屋とタッグを組み、また時には組織の命令には従わずにマイペースで暴走したりと主人公のワンマンぶりも素敵ながら、本作ではここに複数の組織を織り交ぜて、連中の正体は何なのか、そしてその目的はといった大きな謎に、主人公の出自も絡めて物語を大展開させていく構成が見所です。
寿行ワールドであればジーパンの美人にお尻さま、なんてかんじでキワモノマニアは想像してしまう譯ですけど、本作では前半に主人公の出自を述べる場面でそのあたりのシーンが流れるのみ。エロっぽい場面に關しては非常にアッサリしています。
しかし暗いオホーツクの海に佇む裸女の圖はあまりに叙情的で、母の復讐を吹き込まれて育った主人公の心の闇との對比もまた見事。前半部では組織對組織の追いかけっこに終始するものの、彼の出自が語られたあとの展開は正に寿行センセの本領発揮。
復讐と血の宿命に対峙する主人公が組織へ立ち向かっていく構成はある種の神話を彷彿とさせ、ここに組織の正体やその目的が次第に明らかにされていくという推理小説的な展開を絡めているところも秀逸です。
で、あとがきにある寿行センセの言葉にいわく、友人の編集者に推理小説を書いてみないかといわれたところへ二つ返事で飛びついたものの、
ここのところ、ぼくは小説の内容を変えはじめた。謎という要素は小説構成の上で大変重要だが、トリックというのが性に合わない。だからそれを冒険に置き変えた。追う者と追われる者、死物狂いで闘う者――それがぼくのテーマである。
「君よ憤怒の河を渉れ」にもコロシに關してトリックが描かれていたのを覚えているのですけど、本作にはそのような、一つのコロシに一つのトリックを絡めたような風格はなく、主人公の友人も組織の手によってバタバタと殺されていくという展開でありますから、そもそもフーダニットという興味で讀者を引きつけるつもりは毛頭なし。
讀者を驚かせ、感心させるようなトリックこそないものの、上にも述べられているとおり、物語を牽引していく謎というものはシッカリと存在し、主人公の活躍によって二転三転を見せながら最後に眞相が明らかにされるという結構は保たれています。
翻弄されるなかで少しづつ明らかにされていく情報から、組織の正体を主人公が「推理」してみせる展開には、トリックに代わって導入された「冒険」という要素に埋没しかかっているとはいえ、謎―推理―眞相という軸によって本作もまた推理小説としての結構をかろうじてとどめているような氣がします。
もっとも果たしてそこで開陳されている「推理」が高度な論理性を持っているかどうかはまた別問題でありまして、このあたりから本作を本格ミステリとしては愉しめない一番の理由に掲げても良いような思えるものの、寧ろ自分としてはそれよりも何よりもやはり本作のような作品にはまず讀者を驚かせ、感心させる「仕掛け」が存在しないところから本格ミステリ的な讀みは難しいなア、と考えてしまいます。
いくつかの本格推理とかの定義をとかをチラチラと見てみると、そこには本格推理の構成要素として大抵は、事件があって、謎があって、推理があって、……みたいなかんじで語られている譯ですけども、極端な話、「イニシエーション・ラブ」とかを讀んでみると、もしかしたら今まで古典作品を讀んで漠然とイメージしていた「事件」というものさえ、本格ミステリには必要ないのカモ、とか、時には「謎」自体が作者の手によって讀者の目から反らされていたり、或いは偽の謎を提示しながら推理によって明らかにされる真相と對をなす本當の謎そのものを隠蔽してしまう仕掛けとかもありだし、……なんて色々なことを妄想してしまうのでありました。
で、本作における謎と眞相を對にし、そこへ主人公の宿命を絡めた構成などを見ると、トリックを排斥してしその代わりに冒険という要素を投入しようとも、或いは本格として愉しませるような作品を書くことは出來るんじゃないかなア、なんて氣がします。
というのもひとつの密室殺人事件にひとつのトリック、みたいな古典原理主義者が猛烈にリスペクトする結構からひとたび離れれば、事件は物語の全体を貫くイベントとして描くことによってそこに讀者を驚かれる為の仕掛けや伏線を織り込むことも可能になるだろうし、或いはトリックの代わりに配置した「冒険」という要素から生起されるイベントの數々に反轉の仕掛けを含ませた小説も構想できる譯で、マニア的には本格とは認められないながらも個人的にはその技巧から本格としても大いに愉しめる「恋」、「美の神たちの叛乱」、「牝牛の柔らかい肉」といった連城氏の作品などは正にそんな作品ではないのかなア、なんて思ったりするのでありました。
と、激しく脱線して寿行センセの話から強引に連城ミステリに結びつけてしまった譯ですけど(爆)、本作ではいくつかのイベントにさりげない伏線が凝らされている箇所もあるとはいえ、そこは頭脳よりも肉体重視のハードロマンゆえ、やはりここは主人公の宿命に託して語られる神話に全てを委ねて物語の展開を愉しむのが吉でしょう。
こちらでははじめまして(^o^)丿
いつも興味深く拝見しています。
>ちょっとした理由がありまして
どんな理由なのか、これもまた興味深いです。何か思うところがあったのでしょうか?
①どんな事件や難問が起ころうとも、②あるいは刑事事件ではなくても、また、③どんなふうに見えていようとも、提示されているできごとが論理的に解明されているなら、それを本格と呼ぶのがよいのではないか。
それが島田荘司氏の提案していることだと思いますが、私も①②③どのパターンであろうと(それがどんな見え方をしていようと)、最後に、論理的にすかっと解明される小説を読むと、すごい!と思います。
ミステリー論を、またいつかゆっくり語り合ってみたいですね。
えいこさん、コメントありがとうございます。
まア、ちょっと理由に關しては、最近本格ミステリの構造について色々と考えていて、そのあたりを意識しつつ、本格ミステリではない作品を読み込んでいる次第です。
……で、このあと本格ミステリに關して書いていたら結構な長さになってしまったので(爆)、これについてはまた明日、この場所でコメントしようと思います。
何だかバタバタしていてサボってしまいました。すみません。以下、あくまで簡單に。
本格ミステリは貪欲な文學である、というのが最近自分が考えていることでありまして、その仕掛けに着目すれば、昔から本格作品というのはいかに讀者を驚かせ感嘆させるかということを考えつつ、あらゆることを時にはその為「だけ」の為に利用してきたという特質があると思うのです。例えば探偵を犯人にする、讀者を犯人にする、記述者を犯人にする、それでも足りなければ謎そのものに仕掛けを施す、物語の外枠に仕掛けを行う、等等。
で、ひとたび本格ミステリの「定義」をすれば、その定義の中にある要素をも「仕掛け」に使おうとするということも當然考えられるわけで、「事件」も「謎」もそれらのすべてを仕掛けに奉仕させようとする、その運動そのものが本格ミステリというものには生來的に備わっているのではないかと。
したがって定義から逸脱をしていく本格ミステリの變容そのものを「觀測」するよりその實相をとらえることは出来ず、それゆえ、慧眼のある方々は例えば「その純粋な運動だけを観察」しようと試み(千街氏)、或いは本格ミステリには「本來」の「健全」な姿など存在しないはずだ、というところからその不自然な樣態に着目して「その不自然を意識することで新しい主題が提示されるといった動き」を「追いかけてゆく」という方法によって本格ミステリのかたちをとらえていこうとするのではないでしょうか。
更にいえば、「觀測」を行うとあれば、當然自分の立ち位置もシッカリさせておく必要がある譯ですけども、それを行おうとする者の立ち位置というものが、こういった變容していく本格ミステリを基底にしているという矛盾がある譯で。そうやって考えていくと、本格ミステリの定義を行おうとすること自体がかなりの無謀さを伴うものなんじゃないかなあ、と思ったりするのですが如何でしょう。
という譯で、自分は敢えてこのブログでも、この作品は本格ミステリだ、という断定を避けつつ、本格ミステリとして愉しめる、みたいな言い方を行っているのですけど、その技巧と技法に着目した讀みを徹底して行っていくような自分のやりかたはかなり特殊でしょうね(苦笑)。
そのほか、本格ミステリの定義を行うことはあまり意味がないが、では島田氏の本格ミステリー宣言はそれらとどう違うのか、という點については以前書きました。島田氏の本格ミステリー宣言はあくまで未来の、これから生まれるべき小説に向けられた指標であって、「容疑者X」問題を典型とした、本格推理小説の定義を現存する小説に當てはめることとはマッタク異なる、というのが自分の考えです。