前のエントリはかなり茶化して書いてしまいましたけど、実際のところはこのムック、結構マトモに仕上げられています。本格無理解者とはいえ現在の日本の本格ミステリにおいて作品をどう評價すべきものなのかという點について、少しでも關心がある方であれば非常に愉しめると思います。
麻見氏、鏑木氏との座談會にしても首領は的確に質問を行って好感度の高い仕事をしているし、「黄金の本格ミステリー」を選出するに當たっての座談會の中でも概ね理性的な議論が行われています。
何よりこの座談會では小森氏が「前向き」と「後ろ向き」という風に現代の本格の作風を二つに分けてみせたのが秀逸で、首領の「カーの復讐」だってこの「後ろ向き」の評価軸を用いてもっと評價されるべきだったと自分は思うし、何よりも本格ミステリという媒體以外ではなかなかこの「後ろ向き」の作風の作品は取り上げられる機會も少なく、またそれ故に一般人には認知もされない評價もされないというジレンマもある譯で、このムックの刊行によってそのテの問題は少なくともいい方向に向かうのではないかな、と期待しています。
「2007 本格ミステリ・ベスト10」に収録されている座談會での、中辻氏の、
二階堂さんは過去に固執していますね、美意識が。それに対し笠井さんは、未来に向けてどうしたらいいのかという焦燥感みたいなものを持っている。
という指摘に対しても、この「本格ミステリー・ワールド」では「後ろ向き」の作風のものも評價していく、という宣言と解釈すればいいとい思うし、
でも一昨年デビューした大山誠一郎はどうか。あれだけコアな、数千人しか読まないような本格を書いて、今後あの人が万単位の固定読者を掴むかというと難しい。でも彼にも作家を続けてもらいたいじゃないですか。それが危機なんですよ。
と市川氏が感じている切實な危機感についての回答にもなりえると思うのですが、如何でしょう。
確かに首領のものいいは「過去に固執している」ように見えるし、他人に議論をブチカますときには電波出力が最大になるゆえ、その言葉だけをマトモに受け取るとどうしても議論が成立しないのはド素人の自分が見ても丸わかりです。とはいえ、ことその作品に關してはこうした首領の電波語録とは切り離して評價されるべき、というのがボンクラの自分の思うところでありまして。
「カーの復讐」は「後ろ向き」の本格ながら、その後ろを向いた中で最大限の仕掛けと稚氣を凝らした一作とみれば、今回黄金の本格ミステリーにも選出された本格理解「派系」の長編大作や大山氏の作品などと比較しても、個人的には首領の作品はもっとモット評價されるべきではないかなア、なんて思うんですけど、流石に選出する側にいる人間の作品をセレクトする譯にもいかず、今回その枠から洩れてしまったのは殘念です。これは小森氏の「魔夢十夜」にしても同じことがいえるでしょう。
それと、ボンクラのド素人の自分がいうのも何なんですけど、首領と作品の趣味嗜好を同じくする本格理解者の仲間の方々に期待したいのは、どうか首領の「眞意」を外部の人間に對して「翻訳」しつつ、本格ミステリ界を盛り上げていこうという彼の氣概をシッカリと支えていってもらいたい、ということです。
何でこんなことを書いているかといいますと、この「本格ミステリー・ワールド」を一讀すると、御大や首領は勿論のこと、作家の方々それぞれの本格ミステリに對する思いが強く傳わってくるからでありまして。
首領も自らの壯大な電波語りを、この一册の成功の為にか今回ばかりはセーブしつつ、小森氏もまた本格理解者とか探偵小説研究会とかとは離れたところで、非常に冷静な提案をしているように自分には感じられました。
しかしその一方で、そんな三氏も含めた方々の苦労や配慮は、後半に収録された「私のお勧めの本格ミステリー」において「内輪」の作品をズラズラと竝べるという暴擧によって台無しにされてしまっている譯です。自分が首領の立場だったらブチ切れますよ、これは。
ただでさえ誤解を受けまくっている昨今の首領の怪しい言動と行動を鑑みれば、彼を支える身内の仲間はこの一册を成功させる為にも身内的なヨイショは厳に愼むべきなのではないかなア、なんて思うんですけど、こんなこというとまた本格無理解者のバカモノが何をいっているんだ、なんて毒つかれしまいますか(爆)。
時折壯大な空回りや迷走を見せつつも、日本の本格ミステリーを盛り上げていこうという首領の熱い思いはボンクラの自分でも理解出來るし、後は身内なり周囲の仲間がそのバイタリティをシッカリと正常軌道に乘せていけば、首領も今回のようにいい仕事をしてくれると思うんですけど、首領のお仲間内部では批判も否定も御法度なんでしょうか。
あと首領の宿敵(爆)、探偵小説研究会と本作との絡みについて思うに、探偵小説研究会は、小森氏のいう「前向き」の本格を突き詰めていくことを主流とし、首領の本格ミステリーワールドは「後ろ向き」の本格も評價しつつ、本格ミステリー全体をとらえるかたちでその成果を毎年一册の本に纏めていけばいいのでは、と思うのですけど如何でしょう。
別に貴樣の本格ミステリの定義をハッキリさせろ、とか喧嘩腰の議論をしなくとも、各が志向する作風のラインを明確にしておけばそれは單なる「違い」に過ぎず對立も起こりえないし、それぞれがそれぞれの志向する本格ミステリーを目指していけばいい、と思うのですけど、これまた本格ムラの中ではこういう考えは御法度なんですかねえ。
ボンクラの癖に何でこんなことをダラダラと書いているかというと、もうクダラない「X議論」のお祭はこれくらいにして、もっと真劍に日本の本格ミステリーについて考える時期に來ているんじゃないかな、と思うんですよ。御大の巻頭言や、綾辻氏、そして乾氏の文章を讀むにつけ、ガラにもなく今日は真劍にそんなことを考えてしまいました。
という譯で、首領の日記に書き綴られた購入哀願の言葉がアレとはいえ、本格ミステリに關心がある方であれば、本作は「買い」でしょう。また本作を讀んで、本格ミステリを愛する一人一人が、本格ミステリそして本格ムラが抱えている問題について考えてみるのも決して無駄なことではない、と思うのですが如何でしょう。
確かに自分もこういう騒動というか悪い意味で電波な発言とか行動せず、ただ作品だけで勝負していたら二階堂氏はもっと評価・・・それが”本格”という文脈で評価できないとしても評価されていたと思うのですがね・・・。『聖域の殺戮』も痛い作風を無視したら物語とか雰囲気好きですし、『魔術王事件』は本格というより乱歩小説なんだと思いますし、その範囲でなら面白いと思いました。
だから政治というものに対して目を向けても向くほうは読者にということでやっていたら・・・とは思っているんですがね。
自分などは「痛い作風」も含めて、そのイタい部分も愉しんでしまえるし、「魔術王事件」しても乱歩ものの風格に首領らしさも添えてあるところなどは評價したいし、「カーの復讐」だって傑作だと思うし、……というかんじで彼の作品自体は「増加博士」とかのクズミスを除けばあれはあれで好きなんですよ。
「だから政治というものに対して目を向けても向くほうは読者にということでやっていたら」というのは當にその通りで、ミステリ業界や文壇の中の妙チキリンな政治力学によって、讀者が求めているような作品が出版出來ないという状況が假にあるとすれば、やはりそこはある程度の政治的手法によってどうにかしていく、というのも仕方がないかなア、という氣はします。
首領の言動と行動に關しては、本格理解者の仲間がキチンと軌道修正していけばいいと思うんですけど、どうにもこのムックの後半とかを讀む限り彼らにはそういうつもりはマッタクない樣子で、何たが首領って案外、本當に仲間と呼べる人が廻りにいないんじゃないかな、なんて考えてしまいました。小森氏ガンバレ、というのが今の自分の率直な氣持でしょうか。
自分も雰囲気とサプライズで読むタイプなんで『悪霊の館』とか好きなんですよね。
この人自身は本格を志向していても乱歩の呪縛からまれているんではないでしょうか?
政治力学でうまくたちまわっていたら今のような状況にはなっていなかったと思うんですがね。ある意味で頑固なんでしょうが・・・。
あの本はまだ立ち読みしかしていないのでまだそれについてはなんともいえないですが、
それだと本格的に孤立していますね・・・。それがこの人に自分の行動を省みる機会になると思うのですが・・・・。
「魔術王事件」のようにあからさまにリスペクトを表明したり、「カーの復讐」のように隱し味として添えたりと、個人的には乱歩の呪縛も作品としてうまく昇華されているとは思うのですけど、このあたりを愉しんでくれる人が少ない、評價されない、ということなのだと思います。そしてそれが彼の不滿へと繋がっているのでしょうけど、……難しいですねえ。
自分は乱歩の呪縛というものは評価するというか『金田一少年の事件簿』からミステリ読み始めていて怪人・怪盗という部分では引くとかはなかったですね。結構そういうのは自分的に好きですね。
自分もやはり學生時代に乱歩とか正史とかを讀んでいたこともあって、こういうのが好きなんですよね。
最近、清張呪縛と新本格に絡めて當事の作品をイッキに讀みかえしたりしているんですけど、「清張呪縛」という言葉に込められた御大や新本格作家の意識を讀み解くには、やはり怪人・怪盜とかも含めた作品の雰圍氣というのが非常に重要な氣がしてきました(綾辻氏が「本格ミステリー館にて」で語っていた内容にも關連するカモ)。このあたりは機會があったら書いてみたいと思います。