傑作。ホラーというか、前半のドタバタっぽい展開が後半では一転、様々な伏線が一息に回収されて巧緻な仕掛けが明らかにされるという、本格ミステリの技巧を駆使して驚きと哀切溢れるドラマを描き出した一篇で、堪能しました。
ヒョンなことから偽札絡みの犯罪者扱いをされてしまった絵描き志望の女が、とある組織にかくまわれることに。しかしその組織の首謀者というのが大金持ちのオッサンながら、どうやら裏があるらしく、やがて一人また一人とメンバーが命を落としていき、……という話。
バイロケーションという聞き慣れない言葉がタイトルにもなっているのですが、簡単に言ってしまえば、ドッペルゲンガー。もっともドッペルゲンガーとも微妙に異なる様態が作中でも語られていくのですが、自分と似た人間が知らないところで様々に勝手なことをしまくり、人生を台無しにされかかった人間たちが集まったグループのテンヤワンヤが前半の流れ。
こうした怪異が作中で描かれ、それがここ最近のホラーの意匠をまとった一作とあれば、やれ謎の組織が国家規模で何かトンデモないことしでかしていた、とか、宇宙だかどっかからやってきた未知の生命体が何タラカンタラで、……という「真相」が後半へと進むにつれて明らかにされていく、みたいなイージーな展開かな、と勘違いしてしまうわけですがさにあらず。
本作では、中盤に至っても、確かに主人公が関わることになった謎の組織とその首謀者の怪しさが前景に押し出されてはいくものの、そうした大風呂敷へと流れることなく、ヒロインの人間関係や首謀者の隠された関係などを徐々に明らかにしていくのみで、過度な飛躍はいっさいありません。そうした風格からややこぢんまりとまとまりすぎかな、と感じてしまうわけですが、後半に入ると首謀者がどうしてこのバイロケーションにかかわることになったのか、彼の過去を暴いていきながら、登場人物は勿論、作中で描かれているものが本物か偽物か読者にも判らないという本作の仕掛けをフル稼働させた驚愕の展開が用意されているところが素晴らしい。
このこぢんまりとした人間関係の描写の典型として、ヒロインの婚約から結婚へと繋がる話が要所要所に描かれているのですが、正直、これってバイロケーション云々にはいらないよネ、なんて軽く流していたら、首謀者の過去と現在と見事な連関を見せ、それがある人物の深く屈折した、――それでいて深い情愛に貫かれた異様な行為の端緒であったことが明かされると同時に、奈落と悲哀を導き出すラストへと流れて込んでいくという結構が秀逸です。
この本格ミステリ的な仕掛けを絡めた壮絶な真相は、人によっては相当に恐ろしく感じられるのではないでしょうか。実際、自分は大いに戦慄してしまったわけですが、差異という言葉がもたらす本物と偽物の歪んだ転倒は不気味にして異様。自らの存在が揺さぶられるという深層心理を直撃してくるこの恐怖は、作中の本筋とは関係なく進行していく婚約話のエピソードや、ヒロインの絵を描くことに対するスランプといった逸話が伏線として機能しているからこそのもので、ただ怖いものを「描写」するのではなく、話の展開や計算された盤石な結構によって最大限の効果を発揮しているところにも注目でしょう。
ある人物の偽物に対する憎しみを理解しながらも、心の中では距離を置いた、――ある種の人ごとと感じている前半のヒロインの心理描写が効いていて、これが最後の転倒によって覆され、壮絶なラストを迎えるという見せ方もいい。そしてその壮絶さの裏では、あくまで後景にありながらも、ある人物の過去の逸話として語られている思いと対置させることで、事件の渦中にはいなかった、――それでいて実はその人物こそが、首謀者の意識の中心にいたという人物の描写で幕となるラスト・シーン。本物と偽物、表と裏が反転した一瞬を描いてみせたその前のシーン。そうした断片は組み合わさることで、すべての登場人物の哀切が迫ってきます。
確かにこの怪異はホラーではありますが、その仕掛けによって、人間ドラマと哀切を活写した風格はまさに本格ミステリ読みだからこそ愉しめるでは、という逸品で、角川ホラー文庫のファンはもちろんのこと、個人的にはその伏線と騙しの技巧をすくい取って物語の深奥を味わうことができる本格ミステリ読みの方にこそ、強力にオススメしたいと思います。