前回の続き。「外灘画報」のインタビューの日本語化もこれで終わりです。今回は、デビュー当時の思い出や、音楽と創作に対する御大の熱い思いが語られています。あと、映像化については「暗闇坂」のことが語れていて吃驚してしまったのですが、そういえば時尚廊で行われた「島田荘司六十一年読書会」の質問コーナーで、御手洗役を演じてもらえないかと金城武にも打診してみたけど断られちゃった、と言っていたような。
この「島田荘司六十一年読書会」での講演内容と質問コーナーは結構貴重で、御大の父親の戦中体験とか、映画の話とか占星術のこととかいろいろあって、ファンにはきっとタマらないものがあるのではないかと。また時間があったら頑張ってテープ起こしをしてみますので乞うご期待、――と言いつつ、おそらく次に日本語にするのは、九月に訪台された際のとある男性誌のインタビュー記事だと思います。雑誌が今手元にないのでアレなんですが、内容はというと、エロいグラビアから車からデシものからファッションまでを取り上げた、自分のようなロートル世代だと一番似ているのは「GORO」とか「スコラ」とか、そんなかんじの雑誌で、内容はフツーのミステリ雑誌のものとは違ってかなり個性的です。
ちなみに、「外灘画報」の表紙はこんなかんじ。御大の写真をドーンとフィーチャーしたものとなっています。
B: ミステリー作家と純文学の作家の違いとは何でしょうか? 純文学作家ができることは、先生にもできる。つまり気持ちの持ち方次第では、先生にも純文学が書けるという人がいます。これについてはどのように思われますか?
島田 : 現在は若干、状況が違っていますが、かつて純文学といえば自然主義作風のことを意味しました。本格ミステリーは、伏線を張り、トリックを用いますが、これをやると、作中世界はリアルな生活描写から、だんだん離れていきます。
つまり本格ミステリーは、創作の手段やその手法が人工的なわけです。私は両者の違いを、自然主義と人工主義の相違というふうにとらえています。ひと言で言えば、そういうことになるでしょう。
この両者に、芸術的な高低はありません。その証拠に、日本の文学史を見渡せば、物語は人工主義の作品の方が圧倒的に多いのです。本格系のミステリーが自然主義作風より一段低く見えてしまうのは、こうした考え方や文章力の高低からではなく、前例や定型に寄りかかりすぎて、作品がみな似かよってしまっているからです。これでは稚拙に見えて、文学力も低下します。これにはヴァンダインのゲーム志向の提案も、いくらか関わっています。
過去、「人工主義」という言葉が存在しなかったために、このことを正確に説明することがむずかしかったのでしょう。最近私は、この造語にあえて説明に使うようにしています。先の『異邦の騎士』には自然主義、つまりは無防備な自己描写につながる匂いがあって、当時の自分はこれを嫌ったのでしょう。
その一方、純文学を文章力そのものの巧拙、またこれからにじみ出る書き手の思想や、人生観の高低からとらえようとする考え方もあります。そういう意味では、私自身も将来、こうしたものの達成に挑戦するつもりはあります。けれど、まったくの自然主義作風を採ることには、まだ抵抗感がありますね。B: 映画『暗闇坂の人喰いの木』が間もなく上映されます。以前、先生は御手洗潔シリーズは映像化したくないと仰っていたかと思います。今回、その映画化に同意された理由はなんでしょう? また、映画の中の御手洗像は、先生の中にある御手洗のイメージと一致しますか?
島田: いえ、『暗闇坂の人喰いの樹』は、内定していた堤幸彦監督が辞退したために、いまのところ制作は止まったままになっています。友人である東映のプロデューサーの香月さんが、彼の尊敬する日本の映画監督をすべてあたってくれたのですが、全員に辞退されてしまったんです。みなさん、シリーズものでイメージが定まってしまっているような主役は自分の作品にしにくい、と言うようです。
それはとてもよく解ります。苦労して映像化しても、大勢の読者からが不満を口にするようではね。ここまできたら、もう、日本では映画化はむずかしいでしょう。実力のある中国の映画界に期待したいところです。
私がかつて映画化に同意しなかった理由もまた、上と共通するのですが、映像化によって、御手洗に全然別のイメージ――、たとえば無思慮な威張り屋だとか、弱者に対して理不尽で冷たい意地悪な人間だとか、世をすねた幼い異端児だ、といった、当時数多くあった御手洗への誤解ですが、こうした正反対のイメージが映画によってついてしまうのを私が嫌ったためです。今は信じがたいことですが、当時彼は、そんな得手勝手で子供らしい暴君だと、大勢に信じられていました。ですから、こういう脚本が書かれる危険は大いにあったのです。
このようなかたちでキャラクターが強調されてしまうと、映画の影響力には大変なものがありますから、のちの出版もむずかしくなってきます。したがって、そうされても活字世界が負けないよう、充分な数の作が出揃うのを待っていたわけです。けれど、もう大丈夫だと思ってOKしたら、先ほど話したようなことになってしまいました。むずかしいものですね。
映画の中に現れる御手洗が、自分がいつも脳裏に見ている御手洗と、一致なんてことはないわけですから、そんな期待は最初からありません。もしも映像化が実現するならば、その違いをむしろ楽しんでみようと考えています。ただ、もっとも悪い方向で違ってしまうことだけは避けたいと思ったんですね。三十歳にして大人の男としてひとかどの達成を得る
B: 二十代は人生のどん底で、退屈し、苦しかったと以前、先生は仰っていました。そのころはどんなかんじだったのでしょう?
島田: その文章の意味ですが、別に生活がすさんでいたというわけではないのです。世の中に対して何も生み出せない、その方法もないという気がしていたのです。そうした状態がいつまでも続くまで、どん底に感じたということです。
それまでだって学生だったわけですから、何も生み出せなかっただろうと言われれば、それは確かにその通りです。大学内での未来車レンダリング・コンペへ参加したり、高校時代には校内新聞を制作したり、あるいはバンドをしたりと、小さな社会に向かってそれなりに何かは発表できていたわけです。社会に出たら、何かを創ったとしても、それを発表する場所がなくなってしまったのですね。その場所を見つけるまでが、ずいぶん長く感じました。B: 先生は三十歳になったら創作を始めよう以前から決心していたと聞きます。そして、その通りになりました。どうしてそう考えたのでしょう?三十歳という年齢に何か特別な意味があるでしょうか? 実際は小学生の頃から小説を書き始めたそうですが。
島田: 今振り返ってみると、三十歳というの若くて、はただの通過地点でしたね。しかし二十代の頃は、三十歳というのは大人の男としてひとかどの達成を得る場所で、そうでないと人生の落伍者のようにみなされる、と思えたのです。
それまでに、スポーツ新聞にエッセイを書いたり、イラストを発表したり、レコードを作ったりはしていました。しかし自分が期待する三十歳のイメージには、まるで遠いものだったのです。ですから二十代後半、あと数年でそうした達成はもう無理だとしても、自分が納得できる、大人としての三十代を送りたいものと考えました。
小説家としての生活ならば、一応そのように納得ができたのです。またそうなら、三十歳になれば世の中の仕組みもよく解っていて、大人の社会をきちんと描写できるだろう、などと考えました。
このまま今の仕事を続けていたら、自分のそうした計画の実行が、ずるずると遅れていくだろうと思いました。だから、どこかの地点で現在の仕事をすべて断り、出直す踏ん切りが必要だったのです。そのためにこれを三十歳で行うと、自分に対してアドバルーンを上げたわけです。B: 江戸川乱歩賞の選考で、『占星術殺人事件』は第二位となりました。第二位という結果に、先生は大変落ち込んだと聞きましたが、この結果に対してどうですか? その後、出版社とはうまくいきましたか?
島田: この時の受賞作は、井沢元彦さんの『猿丸幻視行』でした。悪くない歴史ミステリーでしたが、今は読む人はまれかもしれません。確かに落選当時はショックを受けたと思います。自分に将来がなくなったのではという絶望ですね。作品の出来に自信があったということもありますが、「江戸川乱歩賞」にこれ以上ふさわしい作はないのにどうして、という素朴な疑問もありました。
『占星術殺人事件』が受賞を逃した理由を、現在多くの人が分析しています。一番の理由は、当時松本清張さんの「社会派」と呼ばれる自然主義文学作風のミステリーが文壇の主流を占め、これが進歩向上の大いなる成果と受け止められていたからでしょう。『占星術殺人事件』は、表面上の見え方が江戸川乱歩ふうなので、時代を乱歩の通俗性に逆行させる「悪」だと受け止められたわけです。
「江戸川乱歩賞」であるのに、奇妙なことではありましたが、清張さんの成功はそれほどに文壇を覆い、縛っていて、多くの関係者に混乱を与えていました。「占星術殺人事件」は、数学的なパズル発想を背骨にした物語で、乱歩に見られる通俗ものとは最も遠いものです。
ただ、出版社を見つけることに苦労はありませんでした。乱歩賞を主催していた講談社が、すぐに出版を決めてくれたからです。B: 先生は冤罪事件のためにも活動されていると聞きました。これについてお聞かせください。先生の作中では、事件はいつも解決を見ますが、現実世界では様々な障壁があります。このような社会の現状に対して、無力感を覚えることがありますか?
島田: その通りですね。たとえば『秋好英明事件』では、秋好氏が共犯女性の存在を主張しています。裁判所はこれを被告の虚言と断じました。そこで秋好氏は、自分は無関係を主張する共犯女性に、「Y化学」と胸に金字で縫い取りのある紺色上着を提出するように、と要求しました。この上着は、女性が着用の上で殺害行為をなした時のもので、大量の返り血を浴びましたから、凶行直後に秋好氏が裁断し、近くの川に棄ててきてやっていました。ですから、提出できるはずがないのです。
はたして女性は、さんざんの時間稼ぎをした挙句、似た紺色上着をどこかからか見つけてきて、これがそれだという虚言とともに法廷に提出しました。しかしその上着には、当然「Y化学」の縫い取りはありません。刑事コロンボならここで被告人の逆転勝利、画面は停止し、字幕があがってジ・エンド、となるところでしょう。しかし裁判所はこんな事実などおかまいなしに秋好氏には有罪判決を出しました。
現実の裁判は大いに感情的であり、非論理の判断がまかり通ります。本格ミステリー小説のように、ただ理詰めというだけでは、到底うまくいきませんね。B: 先生にとって、音楽は小説を創作する上でのインスピレーションの源泉となっていますか? また創作を行っているとき、どんな音楽を聴かれているのでしょう?
島田: その点はあきらかですね。音楽にはこれまでずっと多くのものを教えられました。私にとってはリズムがとても大切なのですね。ステディなリズム感覚を得たことが、今文章を繰り出すことにどれほど役に立っているか、はかり知れないほどです。自分の文章は、時代が下るほどに音楽に近づいていきます。中国語への翻訳文では、それはどの程度反映されているんでしょうね?
素晴らしい演奏により、そのままストーリーが閃いたり、具体的な風景が浮かぶこともあります。「ある騎士の物語」という短編のクライマックス・シーンは、チック・コリアの『No Zone』でした。これを繰り返し聴きながら書いたのです。
『夏、十九歳の肖像』のクライマックス、主人公がバイクで突進するシーンは、渡辺香津美の「The Great Revenge of The HongKong Woman」という曲。もちろん、文中にある通り、「悲しき願い」もありましたが。
風景ではありませんが、『北の夕鶴2/3』では、ジョン・レノンの『Out the Blue』、グランド・ファンク・レイルロードの「Creeping」に閃きを受けて描いたところがあります。
こちらの創作意図が、音楽によって構造的に見えることもあります。『暗闇坂の人喰いの樹』が、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」だと感じられて、なんとなく恥ずかしく感じられたこともあります。いやもちろん、「天国への階段」は傑作なんですけれどもね。ブルースの純粋な精神からは遠くなっているでしょう。あれは冷静な、知的操作の産物ですね。
基本的に、音楽はあらゆるジャンルのものを聴いています。演歌は聴きませんけど。そしてたびに、その旋律やリズムから触発を受けるのです。チッ・コリアクの『第七銀河の賛歌』や、スーパーギタートリオの躍動は、創作しているいないに関係なく、その影響は今も随所に顔を出しています。
そのたびに、理由は解らないのですが、何故か好きになって聴く特定の音楽が、これほどに多くのものを自作にもたらしてくれている現実を思うと、何ものかが音楽を通し、自分に意志を語ってくれているのかと思われて、一種「神的な」気分にもなるわけです。