傑作「グーテンベルクの黄昏」の續編ながら、非情の密室と冒險譚としても素晴らしい硬度を誇っていた「グーテンベルグ」に比較すると、今回はかなり緩めです。ナチだゲシュタポだモサドだCIAだKGBだと諜報員たちがサロンで賑やかしく罠を巡らせている間に殺人事件が発生して、――と冒険譚的な血湧き肉躍る展開は封印して、ひたすらコード型本格的な鷹揚さを前面に押し出した風格ゆえ、個人的にはかなり複雑な讀後感でありました。
物語は、インテリでセレブでスノッブな大学教授がむちゃくちゃ年下の嫁ハンと一生に幻の絵画を一目見ようと修道院に赴くやコロシが発生。その場で失踪した日本人女性も死体で見つかり、どうやら事件の背後には「オットー」なる超絶スパイが暗躍している様子。教授夫妻はドイツの警察に請われて「オットー」の正体を炙り出すため、マルタ島のパーティーに出席するが、そこでまたもやコロシが発生して、……という話。
何しろ出てくる人物の皆が皆、スパイだ諜報員だと譯ありで、出自を僞っている輩どもばかりという物語ゆえ、ここまで匪諜ばかりだと正直誰が「オットー」だろうがどうでも良くなってくるところがちょっとアレで(苦笑)、コロシに関してもマルタ島では何だかパーティーのご馳走に舌鼓を打っているうちにアッという間に四人が死体となりはてるという性急な展開には口アングリ。
非情の密室殺人に格好いい惡役も配してと盤石の結構で魅せてくれた「グーテンベルク」に比較すると、本作のマッタリぶりはかなり意外、というか唖然としてしまうほどの作風の大変化で、トリックに関してもまア、確かに電源スイッチ云々に絡めてあるといえばある、ないといえばない、というような趣向ゆえ、このあたりに期待すると肩すかしを喰らってしまいます。
本作の場合、やはり皆が皆スパイだ何だと「怪しくない」人物が一人もいないというお腹イッパイ状態のままコロシが発生していくという展開ゆえ、物語の外にいる読者にしてみれば、どうにも舞台の緊張感というものが伝わってきません。もっとも語り手の教授にしても、本来であれば警察から超絶スパイの炙り出しを依頼されたのであるから、生死に関わるような緊張感があってしかるべきなのに、とにかくパーティー会場ではスノッブな会話で盛り上がり、話に疲れたらうまいモン食って休憩、というシーンがリフレインされるところは美食ミステリとして愉しむべきなのか当惑してしまいます。
「蝶ネクタイとスーツ」姿でお迎えの「アストンマーチンDB」に乗って、パーティー会場へと到着するや、夫人からすすめられた「ハニーリングと呼ばれるクリスマス菓子」を「水のせいか」「少ししょっぱい」紅茶と一緒にモグモク食べて、夜は夜で「地元産の発泡性の白ワインで改めて乾杯し」「ナッツ類が細かく砕かれて混ぜてあ」る前菜の「魚介類の盛り合わせのサラダ」から始まり、「リコッタチーズを詰めたラビオリの後、メインはやはりウサギ」。「タマネギ、ニンニクなどの野菜と一緒に長い時間を掛けてじっくり煮込まれている」ウサギの美味しさに語り手曰く、「ウサギは鶏より軽いしラムなどと比べても臭みはない」とのこと。このメインの後は「チーズを載せたプレートが出て、その後はナッツとクリームのケーキ」、――というフウに、諜報員どもが策謀を巡らす主戰場に飛び込んだというのに、語り手の寛ぎぶりには呆れるばかり。
その後も四人がイッキに殺されたっていうのに、語り手は情報収集にとダイニングルームへ悠然とやってくるも、「まずは腹ごしらえだ」と食うことばかりに頭がいっている様子。もっともこの後すぐにいいわけめいた言葉が添えられていて、このあたりを引用すると、
殺人という異常事態で食欲が減退するかと思ったのだが、こういう時こそ却って胃力が増すと見え、食欲は旺盛だった。
そのあとはまたたま例によって美味しそうなメニューがズラリズラリと並べられるという展開で、「手長海老のリングイネ、いくら、鮭が入った冷製のカッペリーニ、四種類のチーズのピザ、キノコのピザの順番で自分の皿に取り分け」るシーンだけでは飽きたらず、「ワインはイタリアのブーリア州産」と飲み物にもしっかりと言及したついでに駄目押しとばかりに「トレッビアーノの白とモンテ・プルチアーノの赤のグラスを並べて、相性のいい料理と合わせながら飲んだ」と美食自慢を散々喋り散らしたあとに、「オットー」の正体へと繋がる伏線を鏤めているあたりのさりげなさは見事ながら、とにかく食いモンにばっかり目がいっている語り手ではスパイまみれの事件の構図を開陳するには役者不足と作者も考えたのか、後半は年下妻が探偵役となって事件の謎解きを見せていくも、個人的には贋作に絡めた事件の構図にはどうにも腑に落ちないところしきりでアンマリ愉しめませんでした。
ただ、最後の最後に明らかにされる「オットー」の正体はかなり意外で、これには驚かされました。またこの人物が件のオットーであったことの伏線というのが非常にあからさまに違和感を釀していたにもかかわらず、舞台がこれ皆スパイばかりという異様な状況が煙幕となって巧妙にその違和を隠し仰せているところは秀逸です。
ただ、コロシが起きてもサロンで美味いモン食いながらマッタリしているというのが基本線ゆえ、この鷹揚さに我慢出来ない自分のようなセッカチな読者にはチと辛いかもしれません。またオットーの件に関するサロンでのマッタリぶりとは対照的に、最後の贋作に絡めた展開はあまりにも性急で、趣向の配分にはやや疑問に思われるところもあるものの、「写本室の迷宮」が「グーテンベルクの黄昏」の「予告編」であったことを考えると、次作は案外期待できるカモしれません。