傑作。あまりに素晴らしかったので、読んだ後またすぐに読み返してしまいました。牧野千穂女史による繊細なジャケ画の雰囲気からその美しいタイトルにいたるまで、どうしたってクラニーの本には見えないのですけど、内容の方は、このジャケ通りの抒情を極めたもの哀しくも美しい物語です。
内容の方は、お金持ち爺さんのパトロンを得てヴァイオリニストから指揮者へと華麗なる変身を遂げたヒロインと、サナトリウムで闘病生活を送っている美青年の画家との仄かな恋情を軸にして進んでいきます。とはいえ、これはクラニーの手になる本格ミステリでもあるわけで、難病ときたからにはお涙頂戴のヌルい感動物語なんゃないノ、なんてかねてよりのファンは斜めに構えてしまうかもしれませんが、ご安心を。
クラニーといえばバカミス、というほどに定着しているバカミスネタや、あるいはもう一つの得意とするアレ系のネタを思い浮かべてしまうのですけど、今回は漢字ドリルとはまた異なる、クラニーならではのこだわりを見せた暗號もの。
指揮者の女性の祖父が残していたという奇妙な楽譜に隠された暗號を、祖父の不可解な自殺と、彼と恋仲にあったヴァイオリニストの不可解な死というミステリ的な事件に絡めているところが秀逸ながら、本作でもっとも注目したいのは、その暗號が織りなす「事件の眞相」、――さらに突き詰めていくと、本格ミステリにおける暗號でありながら、その解読によって明らかにされるものが「事件の真相」とはまた違った「別のもの」でありまして、過去の「不可解な死」という本格ミステリ的な謎の提示を端緒としながらも、暗號解読によって明らかにされる「あるもの」が不可能犯罪の眞相を逆説的に語っているというところでしょうか。
その過去の事件においては、恋仲にあったヴァイオリニストがいる屋敷まで坂道をヒイフウいいながら登っていったあと部屋に忍び込んで殺害するのはどう考えても無理、という不可能犯罪の趣向が前半において提示されるものの、物語はこの事件の謎解きを中心に進んでいくわけではありません。その不可解な死を遂げた人物を祖父に持つ指揮者の女性と、サナトリウムで療養生活を送っている美青年の画家との恋物語があくまでも物語の中心であるわけですけど、本格ミステリでありながらそうした恋愛を中心にドッカリと据えてあることにも不満はマッタク感じません。
というのも、すでに序盤からしてこの恋愛は非常に悲劇的な色彩を帯びていて、目次において最後の「エピローグ」が未来であることからして、何となくその恋の結末は哀しいものなんだろうなア、というところが予測出来てしまうということもあるでしょう。また、この物語に通底しているテーマとして「バトン」という言葉がある重要なモチーフを秘めているのですけども、芸術家である指揮者と画家の二人が、おのが親族の過去と向き合いながら、「いま、ここ」におかれている自分の苦境に対して、決していきむことなく、それでもしっかりとした足取りで乗り越えていこうとする意志が感じられるところも素晴らしい。
二人の恋情は決して劇的に盛り上がるわけではなく、ここにパトロンの爺さんの非常に紳士的なキャラや、画家の友達がまたいたずらに前に出ることなく、あくまで自らが狂言回しであることを自覚しながら、二人の行く末を見守っているところもいい。
謎に近づきながら、指揮者のヒロインや画家の青年は決してそれに大きくとらわれることはなく、この謎を解読するのは、なかなかいいキャラをした探偵やパトロンの爺さんだったりするところも、恋愛物語を中心としながらその情景を本格ミステリ的な装飾によって美しく際立たせるという結構を非常にうまいかたちに見せています。
これだけ美しい恋愛物語の雰囲気が途中や最後の謎解きシーンなどで台無しになってしまっては駄目な譯で、本作ではこの暗號が探偵の手によって解読された瞬間に最大級の悲哀と感動が読者の胸を激しくうつような仕掛けが凝らされており、それがまた上にも述べたような、本格ミステリにおける不可能犯罪という「謎の提示」を逆手にとって、暗號に秘められた「あるもの」が「不可能犯罪」という「事件」そのものの姿を反推理小説的なかたちへと昇華させているわけで、この結構だけでも個人的にはもう大満足。
さらにこうした反轉、逆説的な要素は、暗號の解読プロセスそのものにも及んでいて、このあたりは270pに傍点つきで語られているのですけど、「不可能犯罪」という謎の提示から暗號の解読によって明からにされる逆説性をマクロとすれば、こうした解読の手法に凝らされた反轉の趣向はミクロ的ともいえ、ここまでの統一感と徹底ぶりも見事です。
こうした暗號と趣向「そのもの」に絡めた統一性というのは、本作のなかではいくつも見られ、ほかには276で探偵が語る「共鳴作用」という言葉と、本作におけるヒロインと画家との恋愛関係とが重なり合っているという小説的構成、もうひとつ276pのなかで探偵が口にする「デジタルに解釈すれば」という言葉と、この作品における画家の創作技法(CGと手書きの混交)から生じる苦悩とそれを超克した暁に現れる真の芸術の恩寵など、――文章のすべてが伏線となるというクラニー流の、本格ミステリのこだわりが随所に感じられるところもファンとしては堪りません。
もう少し本格ミステリ的な、本作で早くに提示される過去の「不可能犯罪」という点に目をやると、この「不可能犯罪」に読者の関心を惹きつけるために、暗號の解読というプロセスを二重化させたことも見事で、パトロン爺さんの解読によって明らかにされたものが、真打ちの探偵によって楽譜に隠された「あるもの」が明らかにされた刹那に、見事な反轉を見せるという結構もいい。「エレジー」というタイトルの真意と、この解読された暗号のなかで繰り返されるある言葉はもう感涙必至という代物で、電車のなかで読んでいたら思わずブワッと涙が出てきて困ってしまいましたよ(苦笑)。
また本作に登場する暗號はこれだけではなく、もうひとつ、ロシア文字のやつが最後の最後に明かされます。いや、確かにこの解読された意味も非常に感動的なものなんですけども、思わずこの言葉が出てきた瞬間に「イアラー!」と心の中で叫んでしまったのは内緒です(意味不明。でも読めば分かります)。
そのほかにも、ラフマニノフ/カリンニコフの手になる「バラード」という曲の謎などもあって、それがまた本作で繰り返し語られる「バトン」という言葉の意味を感動的にしているところも効果的。
もちろんヒロインと青年画家二人の造詣も見事なのですけど、個人的には探偵と彼の恋人、そしてパトロン爺さんなどといった、しっかりとしたキャラが脇を固めているところも本作を素晴らしいものにしている理由カモ、と感じた次第です。
という譯で、ファンだったらもう必読、という、クラニーの新たな代表作ともいえる逸品ながら、個人的には、牧野千穂女史の手になる繊細で、美しい装丁に惹かれた、本格マニアでもない、ごくごくフツーの本讀みの方にも手にとってもらいたいなア、という気がします。美しくももの哀しい暗號という本格ミステリ的な趣向のみならず、「泣ける」要素も最大級にブチ込んである一冊ゆえ、新聞などのメディアで取り上げられたら、大ベストセラーになるんじゃないかな、というか、なってほしいッ、と思わず力んでしまうほど個人的にはツボでした。オススメ、でしょう。