ざっとあらすじを纏めてみれば、女の涙を壜に集めている変態君を追いかける女刑事とその相棒、――という結構ながら、本作では、この物語を「犯人」である「涙水收集者」を語り手に据えた場面と、女刑事の三人称の視点から捜査のシーンとを平行して描き出しているところがミソ。こうした人称の混在にはやはり何か仕掛けがあるんだろうなア、と考えるのが大方のミステリ讀みの思考パターンながら、自分は見事に騙されてしまいましたよ。
これが冷言氏とか寵物先生とかの小説だったらもっと身構えて挑んだであろうものの、……という弁解はこれくらいにして(爆)、本作の仕掛けではこの「騙り」を中心に据えた結構が最大の效果を発揮しているのは明らかながら、ここでは「犯人」「被害者」「探偵」といった「役割」を事件の構図に凝らした技巧に注目でしょう。さらにはこれを、女刑事を主人公に据えたサスペンスものという外觀とともに、「作者序」において、本作の「謎」の樣態について、あたかも涙収集者の「犯行」の「動機」であるかのような「僞装」を行っているところがまた見事。
こうした物語の枠外から、本格ミステリとしての樣式と構造そのものを利用して讀者を誤導する技法に自分は何となく深水氏の「エコール・ド・パリ殺人事件」を思い出してしまったのですけど、そんな「作者序」をざっと引用してみると、
FBIの犯罪ものなどを讀むと、そこには女性の靴下や靴、下着などを蒐集するフェティッシュな犯罪者を見ることができる。「もし、專ら女性の涙ばかりを蒐集するという男がいたとして、そこにはどんな物語があるのだろう?」――そんな考えが突然脳裏に浮かび、そうして出来上がったのがこの小説「涙水狂魔」だった。
本作に取りかかる前に、この「作者序」を讀んでいるのといないのとでは大違いで、自分などはこの「作者序」に込められていた作者の奸計に見事にやられてしまった譯ですけど、そうしたメタ志向ともいえる意地惡な趣向は勿論ながら、再讀して始めて見えてくるのは、「羽球場的亡靈」にも通じる事件の構図が釀しだす人工美とでもいうべきものでありまして、本作では特に「被害者」「犯人」「探偵」という本格ミステリでの役割に着目した構図に「ずらし」を凝らした技巧が秀逸です。
クイーンを敬愛するゆえか、氏の作品には短編であれ長編であれ、いずれも「探偵」という「役割」に比重を置いた風格が感じられるところは本作でも同樣で、個人的に興味深いと思ったのは、「やぶれさる探偵」という本格ミステリ的な結末が、事件の構図が明らかにされるとともに詩情的な美しさを湛えた幕引きへと姿を變える構成が見事だった長編「尼羅河魅影之謎」や、或いは「推理」という趣向を探偵對犯人の對立構図の中心に際だたせるともとに「やぶれさる探偵」という結末によって物語を慟哭へと反轉させる短編「残冬」など、いずれも「探偵」という役割を担った人物の敗北がある種の幕引きの雰圍氣を確定していたのに比較すると、本作では事件の構図の中心に「探偵」を据えるとともに、サスペンスの趣向によって眞相が明らかにされた後にもドラマを継続していく結構が林斯諺の作品としては新機軸、といえるかもしれません。
これもまた作者によると、頁數の制約で、内容の六分の一をバッサリと削ってしまったそうですから、こうした後段の展開が作者の意図するところなのか、それともこうした頁數の制約がもたらした副作用なのかは現時点では判然としないものの、サスペンスの基調で描かれた物語においても、やはり「探偵」という本格ミステリにおいては重要な地位を占める「役割」に着目して、眞相開示の瞬間において慟哭のドラマを現出させる技巧は見事で、個人的にはノンシリーズながら、林若平のシリーズよりもこちらの方をイッパイ書いていった方が林斯諺氏はもっと知名度が上がるのではないかなア、――なんて考えてしまいましたよ。
それほどに本作の仕掛けは秀逸で、特に探偵がとある場所に潜入してからのサスペンスを交えた展開において、二つのパートが重なった瞬間の狙いは本作最大の山場でもありまして、サスペンス小説を「僞装」しているからこそ、この二つの場面の重なりで描かれている事件の樣態によって「探偵」對「犯人」の大格闘を予感させながら実は、――という仕掛けが光る譯で、こうした大立ち回りを讀者に期待させるため、冒頭にこのような女刑事の登場シーンを用意しておいたのだな、と再讀して分かる構成の素晴らしさは勿論のこと、個人的には「作者序」で言及されている「涙収集者」の設定と、おそらくは作者が凝らしたであろうレッド・ヘリングにはマンマと騙されてしまいました。
その仕掛けによってサスペンス小説的な風格を前面に押し出した作品ゆえ、林若平シリーズのような詩情溢れる文体ではなく、やや乾いた、平面的な文章で書かれた物語ながら、勿論それもまた作者の狙いであることは後半で眞相が明らかにされた時点で判明するのですけど、映画のワンシーンのような場面をアッサリ描いて幕引きとするところは、「犯人」が明らかにされたのだから、ここはもっと叙情を效かせていつも通りの林斯諺の文体で描き出しても良かったんじゃないかな、なんて気もするものの、案外、こうした後段における情緒を排した文体もまた頁數の制約ゆえかもしれません。
出版という点では些か寂しい限りの今年の台湾ミステリ事情ながら、そんななか、中編の構成ながら、本作は大きな収穫といえるのではないでしょうか。個人的には件のカットされた六分の一をも含んだ「完全版」を讀んでみたい気持ちでイッパイなのですが、本格ミステリ的な視點からその仕掛けを堪能するのであれば沒問題。オススメ、でしょう。