本格推理原理主義者が自らのミステリ作家生命を賭して挑んだ究極のメタトリック!
出版された當事手に取った時には、端正に纏まったいつものサトルシリーズだな、なんて感じただけだったんですけど、今回再讀してブッたまげてしまいましたよ。これは「増加博士と目減卿」なんていうイロモノではなしえなかった、ある意味究極のメタトリックではないでしょうかねえ。
本作を讀まれた方でまだこの本の仕掛けに氣がついていない人もいると思うので、今回ばかりはネタバレ覺悟で書いてみたいと思いますよ。
さて物語は十年前に發生した処刑魔の連續殺人を描くところから始まります。「豚め!豚め!豚め!豚め!豚め!」と豚を連呼する拷問シーンや、シバかれている男が「嫌だあああぁぁぁ」「助けてくれ、ああぁぁ、ぁぁあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁ――」と叫ぶところなど、いつもの二階堂氏らしいB級っぽさをムンムンに釀し出しているシーンに續いて、話は四ツ谷駅のホームで男が突き飛ばされて殺された事件と、猪苗代で發生した二つの殺人の場面、さらにはサトルと由加理が猪苗代へスキーへ行くシーンとが併行して語られていきます。
猪苗代の殺人事件の方は十年前の処刑魔を名乘る人物の犯行と思われ、警察でも過去の事件との関連を探っていこうとするものの、処刑魔はすでに死んでいるし、だとすると今回のは十年前の事件の模倣犯としか考えられない。さらには現場は密室になっていて、……というふうに警察の視點で進みます。
一方サトルの場面はというと、由加理は彼と一緒に旅行だというのにこれまた相變わらずのモジモジぶり、サトルはサトルで例によって外車のディーラーをやっている友人から借用した赤いチェロキーに乗ってご滿悦。しかしホテルに行く道すがら大吹雪に遭遇して天手古舞い、すっかり道に迷ってしまってウロウロしているところをまたまた警察に捕まり、……とお馴染みの展開を経て、二つの場面が繋がります。
密室の謎、そして容疑者のアリバイ、怪しい女の影、犯行現場からなくなっていたタオルなど樣々なアイテムを少しづつ開陳しながら物語が進む間に、再び処刑魔が現れ一人が大ケガを負い、……という展開も御約束、最後にサトルが一同を集めて推理を披露する譯ですが、犯人の方はこれまた二階堂氏のミステリではお馴染みのアレだったりして大きな驚きはありません。
また物語の中盤でサトルが「エラリー・クイーンだったら、謎解きの段階で、五ページくらいは演繹的推理を展開しそうです」といっていたタオルの謎も予想よりもあっさりと流されてしまったところも勿体ないなあ、と思ったりする譯です。密室、アリバイと持ち前のサービス精神を発揮しすぎてそれぞれの仕掛けが小さく見えてしまうところが二階堂氏らしいといえば確かにその通りなんですけど、もう少し一つのネタで大きく物語を展開させても二階堂氏だったら面白いミステリが書けると思うんですよねえ。
例えば上に挙げたタオルのロジックなど、クイーンが五ページのところ、氷川センセだったらその十倍の五十枚くらいはこのネタだけでネチネチと引っ張ってくれそうじゃないですか。このあたりはカーを信奉する二階堂氏とクイーンリスペクトの氷川センセという素性の違いによるものなのか、それとも……なんて考えてしまいましたよ。
そんななか二階堂氏の犯人像ではお馴染みのアレを逆手にとった仕掛けが効いているアリバイトリックが面白い。このあたりのセンスの良さはやはり流石ですよ。蘭子シリーズもそうですけど、氏はこういう普通の小説を手堅く纏めたものの方が面白いよなあ、なんて最後の推理を讀み進めていくと、物語はサトルが犯人を指摘したところで唐突に終わってしまいます。
え、これで終わりですかッ!と思って讀者は呆氣にとられてしまう譯ですが、「本当の仕掛け」はここからなんですよ。実をいえば、自分は最初讀んだ時にこのあとをマトモに讀んでいなくて、本作に仕掛けられた「最大のトリック」に氣がつかなかった譯です。
サトルが犯人を指摘したところで本編は尻切れ蜻蛉フウに終わってしまい、そのあとに小池啓介氏の手になる「密室に眠る可能性」という二階堂黎人論が續くのですが、これは軽くスルーしてしまっても差し障りはありません。注目すべきはこのあとのインタビューでして、本作の「最大のトリック」はここにある譯です。
「二階堂黎人スペシャル・インタビュー」と題したこの卷末インタビューは二階堂氏のファンならずとも本編を讀まれた方は目を通さなければ損ですよ。特に氏の一連の發言で物議を醸した「あの件」に注目されている方であればこれはもう絶對といってもいいでしょう。
冒頭、「サトル・シリーズ」のアイディアのことなどがダラダラと續きますが、このあたりはまあ軽く流して、中盤の「本格と変格」あたりからは一文一文シッカリと讀み進めていかないといけません。一応最初の方でネタバレあり、と言及していますから今回はこの「最大のトリック」の部分を引用してしまいますけど、この本作中「最大のトリック」が明かされるのは「ジャンル意識」という部分で、氏はこう述べています。
誤解を恐れずに言うと、小説の中でそんなにミステリーって好きじゃないんですよ。世界文学全集とか日本文学全集に入っている主流文学を読んでいる方が、ずっと好きなんです。それから、海外SFも気軽に読めます。
ミステリーって、いっちゃ悪いけれど、ペーパーバックみたいな時間つぶしに読み捨てにする本であって、それを評価したり、系統立てて解説すること自体、無駄だと思うんですよ。
ここで明かされる「眞相」とはつまり、二階堂氏は「ミステリーなんて好きじゃない」、ということでありまして、これはつまり、「ミステリーが好きだからこそミステリーを書いていた作家が、実はミステリーなんか好きじゃなかった」ってことですよね。
この衝撃はもう、何というかですよ。これはミステリでいうと、「探偵が犯人だった」というのと同じくらいのショックですよ。絶對に犯罪を犯す筈がない、いや、寧ろその犯人を告発するべき人物である探偵が犯人だった。本作の仕掛けはそれをメタレベルで行ったものと考えればいいのではないでしょうか。つまり「ミステリーが好きでもなかったら絶對にミステリーなど書く筈がない」「ミステリーに對する愛故に挑發的な發言をたびたび行ってきた人物」が実は「ミステリーなど好きでも何でもなかった」のだと。
この仕掛けをそういうふうに解釈してみれば、本編の方の犯人が事件を解決するべき立場にある警官であったという點と相似をなしているのも理解出來るし、さらには、本編があのようなかたちで唐突に終わってしまっているのも、「ええっ?これで終わりですかッ」と奇異に感じた讀者がそのまま本を閉じてしまうことなく、最大のトリックが隱されているこのインタビュー記事へと誘導する為の伏線だったと考えられる譯で。
「ミステリーが好きでもない人間が書いたミステリー」という本來であれば「絶對にありえない」作品という意味で、當に本作は「アンチ」ミステリということも出來るでしょうし、さらには氏がリアルの世界で樣々な問題発言を行ってミステリ界の人間を挑撥していたのも、本作のこの「最大のトリック」をメタレベルで達成する為だったのか、と考えればすべてが理解出來てしまう譯ですよ。氏の現実世界における樣々なパフォーマンスは當に、本作に仕掛けられた「最大のトリック」に奉仕するものだったのだと。
その意味では本作は當に、氏が自らのミステリ作家生命を賭して挑んだ究極のメタトリックといえるのではないでしょうか。という譯で、本作はミステリー・マスターズという由緒正しいレーベルからリリースされたというところも含めて全てはネタであると考えるべきでしょう、……っていうか、そうでも考えないと巻末のインタビューの内容は全然理解出來ませんよ!
「そんなにミステリーって好きじゃない」ような人間が何故かくもミステリーにこだわるのか、その神経はいったいどうなっているのだと思ってしまう譯です。それとも本格推理というのはミステリーの一部ではなく、まったく違うジャンルなのでしょうかねえ。
まあ、いろいろとこじつけ氣味に駄文を連ねてみましたけど、こんな讀み方愉しみ方も出來るんだよ、ということで。「本編」の方はサトルシリーズものとしては端正に纏まった本格ものです。だからこそ巻末のインタビューも含めてこんな讀み方をしてみるのも愉しいのではないかな、と思った次第なんですけど、もし自分の讀み方が作者の期待しているものだとしたらやはり二階堂氏、ただ者ではないのカモ、……というふうに考えてしまうんですけど、まあ違うんでしょうねえ。
巻末のインタビューでの數々の問題発言と、最近の「あの件」での一連の言説は、二階堂氏の中ではどういうふうに折り合いがついているんだろう、と頭を抱えてしまうのでありました。