鬱病先生独白記。
「犬坊里美の冒険」で里美の登場する作品を讀み返してみたくなったので再び手にとってみた本作、派手さはないものの収録作の「大根奇聞」と「最後のディナー」では拳をブンブン振り回してアジテートするような社会派スタイルは後退、弱者への優しい眼差しを添えた一級品の作品に仕上がっています。
最初を飾る「里美上京」はタイトル通りに里美が横浜の大學に転入して上京してくるお話。事件らしい事件はマッタク起こらず、ダウナーな石岡君が「あの事件」のことを思い返しながら里美と一緒に横浜デートを満喫、……というか、終始明るく振る舞っている里美に對して、石岡君のウジウジっぷりが相當にイタい。
「冒険」では真面目君を無意識に誘惑するのみで、その隱された魔性の女ぶりについてそれほどあからさまな記述は見られなかったものの、本作では、
底ぬけに明るい態度なのに、瞳だけは印象が違い、どこかに暗いものを秘めていて、そのせいで視線がダイアモンドのように白く、鋭く感じられるのだ。高校の制服を脱いだ今、その視線は以前より彼女の魅力になっている。
と、さりげなく里美のダークサイドを透視する石岡君の観察振りは流石。しかし作家を生業にするとはいえ「最近の女の子がよく着ている、下着ふうのブルーのワンピース」とか「かなり短いスカートの上に、それよりも少し長いレースふうの生地がもう一枚かぶさるドレスだった」と里美のファッションを描寫した文章に一向イメージが湧いてこないのは自分だけでしょうかねえ。
御大がファッション雜誌に首っぴきで取り組んだ「消える上海レディ」ではこのあたり、もう少しマトモだった記憶があるので、この女性の外見描寫のアレっぷりはやはり石岡君のセンスと理解するべきでしょう。
「大根奇聞」は、里美の縁で知り合った大學教授から薩摩の郷土史に関わる一つの謎を聞かされ、それを御手洗がテレホン相談室で回答を示す、という内容。坊主とその寺に養子に出された子供が托鉢放浪の旅のすえ、凶作の地を逃れて食べ物イッパイの南國を目指して薩摩に入るも、桜島噴火の大被害でそこはまさに生き地獄だった、というトンデモない展開に。
瀕死の状態で婆さんに拾われた二人であったけども、婆さんはお上の言いつけも無視して大根を畑からガメてきたという。二人がお腹イッパイになったところでその犯罪をカミングアウトした婆さんは自分が罪を全て被って処刑されればそれで良いというのだが、坊さんは奇蹟を起こすと宣言して一心不亂に念仏を唱え始め……。
大學教授が持っている資料はそこで終わりとなっていて、どう考えたってこの三人は纏めて大根泥棒の罪で殺されたのだろうと推察されるものの、実は坊と子供はおろか、他の資料によるとこの婆さんまで罪を逃れて生き延びたらしい。果たして、三人はどうやって大根泥棒の犯罪を隱蔽し果せたのか、……という話。
坊さんの念仏でこの資料が終わっているところがミソで、これがやがて御手洗の推理によって奇跡的な感動をもたらすというラストが素晴らしい。御手洗が辿り着いた眞相が、奇蹟を起こさんとした坊さんの神通力によるものと考えることも出來るし、いずれにしろ弱者を見つめる眼差しとその強さを描ききった傑作といえるでしょう。収録作の中ではこの作品が一番のお氣に入り。
「最後のディナー」は里美に脅されて駅前留学をすることになった石岡君が、英会話學校でとある老人と知り合うことに。何でもその老人はランドマークタワーの最上階にあるカクテル・ラウンジで食事をしてお別れの挨拶としたい、なんてことをいってくる。里美と石岡君の三人はそのあと彼の家で波亂に滿ちた半生の物語を聞かされるも、ワインを一気飲みした老人はその場で卒倒、神を見た!と叫ぶや里美と石岡君を家から追い出して以後、行方不明になってしまう。果たして老人は死體となって發見され……。
老人が英会話を始めるに到ったその理由や、例の夜に神を見た!と叫んだ謎が御手洗の口によって語られるものの、彼にとっての奇蹟がここではトンデモない結末になってしまったという哀しいオチ。しかし弱者が最後に気力を振り絞って一世一代の勝負に出る、というのは御大の作品では「奇想、天を動かす」でもお馴染みの展開で、本作ではその老人の悲愴な末路に、里美の明るさと優しが光を添えているところが救い、でしょう。
全編、石岡君の一人語りゆえ、そのオドオド、モジモジっぷりがかなりアレではあるものの、里美との出會いが鬱病先生の中に隠されたポシティブな一面を引き出しているところなど、御手洗を失った(とはいいたくないケド)石岡君の今後の鍵を握るのはやはり里美、と思わせる展開が本作の見所でもあるでしょう。
しかし石岡君はドンドン歳をとっていき、「冒険」にも登場した彼女にホの字の真面目君との今後も氣になるという譯で、石岡、里美の二人の今後はどうなるのか、もう目が離せません。本作に収録された作品の中では石岡に對する里美の気持ちは正直よく分からなかったんですけど、「冒険」では電話でシッカリと(?)先生が好き、とかいってた彼女と石岡君の未來はいかに。個人的には、里美がドンドン探偵的手腕を発揮して有名になり、最後は御手洗同様、石岡君の元を離れていく、……というダウナーな展開ではないかな、と予想しますが如何。
御大が最近になって提唱している社会的弱者への視線やホームズへの回歸という言葉の意味を後年になって思い返した際、一讀した印象は地味ながら意外や本作は重要な作品として再評價されるのではないかという氣がします。ジャケ帶には「心が痛むほど透き通った愛を描く」なんて我孫子氏が蛇蝎の如く嫌っている「感動もの」であることを強調したつくりながら、ミステリ的な仕掛けが見事に小説的技巧へと昇華されたその風格を堪能するのが吉、でしょう。「冒険」の後に讀み返すのをオススメしたいと思います。