繰り返しになりますけど、「困ったちゃん」が放出している電波文の主張そのものに大きな關心はありません。ただ、ついにフィナーレを迎えた、……とはいいつつ、出だしにいきなり「最終回である(きっと)」なんて書かれてあるところが相當にアレな電波文書なんですけど、自分が敬愛する千街氏の大傑作「水面の星座 水底の宝石」が取り上げられているとあっては、やはりここで言及しておかない譯にはいきませんよ。
「困ったちゃん」は、作者が「あとがきで書いているとおり」として、これは観察した事柄を並べたものにすぎない、何も新しい發見もないし、こんなもの全然ダメ、みたいに書いています。本作を第一章「<名探偵の墓場>の方へ」から第十章「逸脱のメカニズム」まで讀み通せば明らかなんですけど、どうやら「困ったちゃん」は千街氏が書かれたあとがきの内容を根拠にこの作品をキチンとした評論ではないといっている樣子。
だとすれば、まずは本作のあとがきをここに引用して、果たして「困ったちゃん」のいわれている通り、作者である千街氏は本作を「論のたったものではなくて」「観察した事柄を並べたものにすぎな」いと述べているのかどうか、皆樣自身の目でそれを確認していただければと思いますよ。自分がこれは、と思ったところは例によって強調文字にしてあります。
……恐らく本書が、正統的なミステリ評論と呼ばれることはないだろう。実際、本書は冒頭にも記したように、評論という言葉から多くの読者が思い浮かべるような、テキストを精読して作者のメッセージを読み取ろうとするような文章でもなければ、データ重視の原稿でもない。數多くのミステリの解決部分に言及してあるからといって、トリックの分類を試みたものでも決してない。特に、どのような社会的背景がミステリに影響を与えたかといった議論は、必要最低限の言及はやむを得ないとしても、意図的に削ぎ落としてある。別に正統的な批評を否定しようとしているのでもないし、わざと奇を衒っているつもりもない。従来のミステリ批評のスタイルからはどうしても零れ落ちてしまうような物事にこそ、実は注目すべきこと、論じるに値することが潜んでいるのではないか――という考えによるものである。
これ、簡單に纏めると「どのような社会的背景がミステリに影響を与えたかといった議論」を中心とする笠井氏的なスタイルは採用せずに、敢えて正統的なミステリ評論とはまったく違ったやりかたで、従来の批評では語ることの出來なかったものを論じてみようとした、……ということだと思うんですけど、違うんでしょうか。
つまり従来の、一般的な評論の形式を採らなかったということに過ぎず、評論というものの本質が「批評し、論じること」にあるのだとしたら、本作もまさにそれを行っているわけです。繰り返しになりますけど、従来のスタイルを採っていないだけで、ただ單に観察した事柄を並べただけのものに過ぎない、などということは作者の千街氏はここでは一言もいっていない譯ですよ。
さらに後半部では、
ところで私には、評論というものは論証の過程にこそ滋養が多いのであって、最終的結論を出すことはそれほど重要ではないと思っているようなところがある。本書においても、結論を読者それぞれに投げ返すような文章が多い。章ごとの着地を綺麗に決めるよりも、蝶のように作品から作品へと気ままに飛び廻り、アクロバティックな論理展開によって、読者の胸倉を・拙んで強引に引きずり廻すような批評を書こうと心がけた。どこまで成功しているかは自分では判断し難いが、それによって、読者それぞれのミステリ観に僅かなりとも動揺が生じるようであれば、私としては満足である。その結果として生じるものが、私の意見に対する贊同であろうと違和感であろうと、それはいっこうに構わない。プラスマイナスいずれの方向にであれ、読者の心に何らかの動揺を呼び起こし、それぞれが無前提に信じている固定観念を搖るがすこと、それが批評の效用であると私は信じている。
ここからも分かる通り、この作品では問題を提示して読者に思考を促すことをひとつの大きな目的としているが故、逆にいうと、自らの思考を一切放棄して偉い人がいっていることは絶對に正しいに違いなく、例えば御大が「すべからく」を「全て」の意味で使っていれば自分もそうする「べき」であって、全く私の作品を評價しない探偵小説研究会の若僧はすべからく「本格無理解者」であるッ!……なんてかんじの人は、本作で千街氏が述べられている文章の真髄を・拙み取ることは出來ない譯ですよ。
もっとも逆説的に見ると「それぞれが無前提に信じている固定観念を搖るがすこと、それが批評の效用」だとすれば、本作によっても「困ったちゃん」が「無前提に信じている固定観念」はビクともしなかった譯で、そうなると本作に批評としての力はなかったのカモ、……なんて考えてしまうんですけど、もっとも相手は常人ではなく生粹の電波であること、さらには前回「蔓葉信博氏の「神様ゲーム」のレビューはそんなにヒドい文章なのか、という件について」でも書いた通り、「困ったちゃん」はどうにも作品の内容もキチンと讀まずに他人を批判するという「隱し技」まで持たれている樣子なので、恐らくは今回も本文はおろか「あとがき」にもマトモに目を通さずに、上で引用を行った冒頭数行を讀まれただけで、「ガルルルゥ、正統なミステリ評論ではないんだな。正統でないというのであれば、當然これは評論でもない筈だ」なんていう奇天烈ロジックで本作をチャンとした評論ではないと決めつけてしまったのではないでしょうか。
とりあえず例の電波文書の連載が終わってしまったことに一抹の寂しさは感じるものの(爆)、前回に引き續き今回も個人批判のテンコモリでありましたから、ここから先、どのような展開になっていくのか、個人的には老獪な北村氏の暗躍を期待したいと思います。もっともそろそろスキーシーズン到来でもありますし、何が起ころうとも例の「必殺技」を繰り出してジ・エンド、だとは思いますが。